そんなこと、出来なければ良いのに

「そんなこと、出来なければ良いのに」と、
 新聞で脳死判定やドナーの記事が出ると思う。
 
 誰だって自分や親しい人が死ぬのは嫌だし、
 どうしようもない状況で術があるなら縋りたくなる。
 当たり前だ。
 
 脳死、植物状態と言われる人にも血液は流れ、息をしている。
 状況に応じ、機械が無理にそうさせているにせよ、そうした状態にあれば
 お医者様がなんと言おうと生かされ、生きているのだと思う。
 
 医学が発達しなければそうした状況を続けることは出来ないだろう。
 だが、術があれば、一分、一時でも傍にいたい。
 生かすことで、意識が戻る可能性は全くの0ではないと知れている。
 戻らないまでも温かな思い出のある人の傍にいられる。
 ならばどうしてそうせずにいられないだろうかと思う。

 半面、移植ドナーを待つ人のことを思う。
 辛いだろうと思う。
 そのままならば確実に死を迎えるかもしれない。
 一生痛みとともにいるかもしれない。
 誰にでも、訪れるものであっても、明らかに目の前にそれが提示されれば、
 怖いだろう。辛いだろう。
 本人も周りも、何かせずにはいられないだろう。
 とことんどうにかしなければいられないだろう。
 移植でそれが治るのならば・・・確実に治る可能性が高いとわかっていたら・・・
 絶対に望んでしまうことだろう。

 術があるなら、どんなことでも縋りたくなる。
 それが重要な器官であればあるだけ、命を求めることは他の命を求めることになる。
 脳死状態の人に対してだけではなくて、他の人に対してだって、
 求めたいという気持ちはきっと湧くのだろう。
 
 最初から、そんなことが出来ないならば、
 そんな気持ちも生まれないものを。

 医療のことだけではない。
 「出来なければ望みも生まれないものを」と思えるものが一体どれほどあるものか。
 可能性があるものを「諦められない」のはいたって当たり前のこと。
 「諦める」必要のなくなった沢山の事柄の蔭に、
 「諦められない」多くのものがなんて沢山あるのだろう。
 世の中のことを知るたび、それぞれの「諦められない」の関係性が見えてきて
 時折ひどく切なく哀しい。