同窓会といじめと・・・


 先日、小学校の同窓会があった。
 3,4日前に連絡があってするするっと決まったのだ。
 積極的に連絡を回すというより、思いついた人に回すという
 実に消極的な同窓会。

 1次会の出席者は6名で、2次会は25名ほど。
 「久しぶり!最近どうしている?」という明日と今の話ばかりで
 過去の話がほとんど出ない。

 出席者の一人が「折角だから昔のコトを話そうよ!」と言うのだけれど、
 気がつけば話は「誰が結婚した」「離婚した」「子供が・・」
 「そういえば○○を街で見掛けた」「高校の頃あそこの花屋で働いていた」
 と、過去は過去でも小学校の話からより現在よりへと戻ってしまう。

 女同士の話では「ねえ、その服どこで買ったの?」と、もはや同窓会とは言えない会話。
 何年も会っていないというのに、「久しぶり!」の言葉もそこそこ、
 各々次に会う予定を設定。
 「ご飯食べに行こう!」「お茶しよう!」と、かしましい。
 耳を澄ますと、男同士も「飲み会しよう!」だなんだと似たようなもの。
 昔を知ってる安心感で、和み、寛ぎ、笑いあう。
 そうして時折「あ!そういえばあの人の連絡先を前に聞いた!」と、
 誰かが電話を手にして誰かを呼び出す。
 
 「あの頃の恋話しようよ」「もう時効だから言っちゃおうよ」と、
 いやに聞きたがるのは男の子たち。
 今現在の恋愛や、結婚についてにより興味を持つのが女の子達。
 女性の方が、昨日より今日に貪欲なのか?
 昨日を見ている男性陣がロマンチスト(?)の集団なのか。
 わからないまま時間が過ぎて、感覚の時間と実際の時間の早さが乖離して・・・
 気づけば帰宅予定の時間に店の中。
 
 大慌てでの撤収中、次の約束をした人達と連絡先を交換し、
 同じく慌てた何人かと「大変」「大変」と言い合いながら早足で帰宅する。
 同じ地元、同じ小学校に育った人達。
 お互いの家の場所も形もほとんど知ってる相手ばかり。

 お酒で体は温もっていても
 寒い寒い夜の中。
 心は焦れど、歩みは鈍い。
 ぼそぼそっと語り、けらけらっとお互いの言葉に笑う度、
 目の前で息が白く染まる。

 寒い夜はなんとなくいつも話さないことを話したくなる。

 彫りが深い人だな〜と思いながら、純日本人だと思っていた彼に、
 ほとんど話したことが無かった人が実はドイツ人のお婆様がいたことを知る。
 家の前まで送ってくれた友人は彼女がアイルランドで待ってるんだと言い。
 早く合えるといいねと言うと、照れくさそうに笑った。

 いったいいつの間に私の周りはこんなに国際化してたのだろう。
 知らないだけで昔からとっくにそうだったのかもしれない。
 
 知らないところで知らない人間関係が編み上げられて
 様々なことがどんどんどんどん繋がっているのだ。
 そして久しぶりに会った皆が。
 
 昔あった嫌なことも良かったことも全て自分の中で糧にして
 素敵な時間を過ごして「格好いい大人」「好い顔」をする人達になっていることを知る。
 今の誰かの中に、昔の誰かの面影を探し、初めての人に会う。
 同窓会は本当に面白い。




 同窓会の際、ある人が警察に捕まったという話があった。
 聞いた私たちは思わず「やっぱり」と呟いた。
 小学生だった私達をある時期「教師不振」に陥れた某教師が、
 担当の生徒たちのビデオを撮影し、訴えられたのだそうだ。
 同窓会ではその話はそれ以上お互い触れなかったが・・・・。
 
 ちょっと今回は悪口を書いてしまう。

 私たちが小学生の頃。
 世間では教師による生徒のいじめ、生徒の写真を撮影することなどがさほど問題化していなかった。
 教師の存在というのは、社会に出ると忘れられがちだが、
 大人が思っている以上に子供たちにとって大きい。
 
 捕まったと聞いた教師は、着替えるのは年に2回。
 学校の備品は私物扱い。
 女生徒の写真やビデオを撮ることに異常に熱を入れる反面、
 誰一人その写真をもらったこともビデオを見たことも無い。
 生徒への苛めもかなり凄まじく、
 TVで見たことのある教師による苛め行動はほぼ網羅していたのではないかと思う。

 今でも教師として以前に社会に生きる大人として失格であったと思う。
 私にとってその教師との出会いは、実に「最低」なもので、
 反面教師として
 他の素晴らしい先生たちとのコミュニケーションがより素晴らしいものだと感謝することや
 「職業で人を見る愚」ということを教えてくれたことだけはありがたいと思っている。
 勿論、そんな事々はそんな思いをしてまで他の子供達に教えたいとはとても思わない。
 
 まぁそんな教師だったから、
 この教師が逮捕されたと言っても、それについては正直「納得」の二文字しかないのけれど・・・

 朝は8時頃に登校し、3〜4時頃帰宅。
 5時〜6時には塾へ行き、22時〜23時頃帰宅就寝。
 こうして見ただけでも睡眠は8時間取れるかどうか。
 真面目に宿題を遣る子供ならば推して知るべしだ。

 私が小学3年生の頃にはもうほとんどの人が学校と塾とでくたびれていた。
 下手をすると大人達よりも子供たちの方が小さな体で大きなストレスを抱えている。
 そんな中で、生徒を名指しで苛めたり、ひいきしたり、
 女生徒へちょっかいを出す教師がいるとどうなるか。。。
 
 勿論、教師だって人間だから多少のひいきはあるのだろうけれど、
 それもレベルによりけりだ。

 ストレス過多の子供達はさらなるストレスを抱えることになる。
 遊びまわってストレスを発散できていたらまた違う結論も出たかもしれないけれど、
 子供たちの中のストレスはどこかへの攻撃という形で発散される。

 卒業後、たまに元クラスメートと会うと、
 知っていること、知らなかったこと、驚かされることをたくさん耳にした。
 
 お年玉を同級生に全て取られただの、無言電話や嫌がらせ電話を掛けられただの
 ランドセルを切り裂かれただの・・・・ 他にも沢山。

 私立の小学校へ行った人からはそこまで物理的な被害の話は聞かないが、
 受験シーズンの口での攻撃は凄まじいものがあるそうだ。

 正直テレビを見ていても、
 いじめの形態としてはほぼ当時私達の小学校にあったものと変わっていない。
 ひどくなったものと言えば、携帯電話が出てきたことでそれを介してのいじめが増えたことだろう。

 過大なストレスと少ない睡眠時間は、
 人間の視界を狭め、どちらかと言えば後ろ向きな方角へ思考を向かわせる。
 欲求が自分を維持するための睡眠にばかり向けば、ストレスを発散させるための選択肢も
 使える時間が少ない為に減少する。
 
 私はゆとり教育が良いとか
 詰め込み教育が良いとかは言わない。
 塾に通わせるなと行った所でもはや世の中に組み込まれているような状態な上、
 塾に行かなければ遊び相手もいないのが現状だろう。

 だから、私は教師の給与をずっと高額にしても良いから
 子供たちへの教育をする人間の質は高めるべきだと考えている。
 子供たちが沢山のストレスを抱える今だからこそ、
 「大人」として子供たちに沢山の選択肢と、明日を与えてくれるような人。
 子供の悩みを親身に聞き、時にはたいしたことじゃないのだと笑い飛ばして教えてあげられるような
 そんな人が子供たちの教師であってほしい。
教師ではなくても大人の選択肢を与えられる人として、教室内にいて欲しい。
 子供時代は目の前のことで一杯一杯でやり直しも、
 空白の明日も沢山あることを実感できていない人も多いから。

 今度、団塊の世代が大量に退職されるという。
 定年になり、海外協力隊に参加されたり、ボランティアに励む方も多いのだろう。
 沢山の人間関係と、経験を経てきたその方々、そしてその上にいる方々による学校教育。
 そんな学校もあってよいのではないのかな。

 今は情報がありすぎるくせに、どんなことは笑い飛ばしても大丈夫か。
 どこまでは人に言ったら駄目か。
 そんな生の人間関係の中で養われるべき情報が少なすぎる。
 今は子供たちの悩むねたが多すぎる世の中のような気がする。。。。