最近の子供・最近の人

いつも通らぬ道で
 桐の花が咲いていた。
 紫の花房が枝先に幾つも幾つも直立して
 まるで山伏が持っている錫杖のように見える。
 桐の木は丈が高く、花を見上げるのに細い路地の壁の端まで寄ってぐっと体を反らす。
 
 昔、女の子が生まれると桐の木を植えたのだという。
 成長が早く、軽くて、虫がつかない。
 庭に植わった桐の木が大きくなると、
 花嫁さんの箪笥となった。
 
 桐の花には「俗っぽさ」というものがない。
 普通の花が俗であるというわけではないけれど
 静謐な泉に咲く蓮と同じで、
 ふと、手を合わせたくなるような独特な透明感がある。
 
 花嫁さんになるまでに・・・・
 先を考えて植えられた桐の花。
 毎年毎年自分のために咲く花は
 お家に娘にどんなことを思わせただろうと思いを馳せる。

 「家」というものの重みを思っただろうか。
 「親の愛」を思っただろうか。
 それともまだ見ぬ「相手」への思いを千々に思ったか。

 最近、子供の犯罪がまたあちこちで話されている。
 家族、夫婦が悪いのではとか
 社会が悪い
 本人が悪い
 何が悪い、何故そうなると
 世は騒がしい。

 教育も、政治も悪い所はあるのでしょう。
 犯罪を犯したことは当然悪くて、本人の資質もあったのかもしれない。
 環境が異なれば、その犯罪までは至らなかったのかもしれない。
 
 犯罪を犯した人も
 犯さない人も
 みんな同じ状況にいて、
 悩んだり苦しんだり楽しんだりしている。

 小さなことで物凄く嬉しくなれる人もいれば、その逆もいる。
 同じことを受けても、感じることはそれぞれ。
 同じ場にいて、楽しめる人もいれば、苦しくてたまらない状態になってしまう人もいる。
 
 TVを見ていると、
 そんなそれぞれの受け止め方の違いさえ、
 まるで同じもののようにひとくくりにしているように感じられてらない。
 「最近の子供」
 もちろん、ひとくくりに出来る共通点があることはわかるのだけど
 そうポンポンと簡単に「最近の子供」とひとくくりにはして欲しくない。
 
 とは言うものの、
 私もちょっとひとくくりを考えてみる。

 最近、ちょっと機会があって
 昭和40年代から50年代前半のことを調べている。
 当時流行っていた店のこと、どんな場所があったのか。
 意外と近すぎて、遠すぎて中々それがわからない。
 
 キャンティやムゲンの時代。
 知っている人が言う。
 「六本木の交差点には本当に6本の木があった」
 図書館へ行く、写真を探す。
 赤坂も、六本木も、渋谷・・・
 舗装されている道がある。
 舗装がされず土ぼこりが舞う道がある。
 ビルがまだあまりない空は広くて、
 銀座の交差点には2階建てか3階建てのスエヒロがある。
 町は緑に覆われて、歩道の半分は樹木の敷地。
 
 当時の雑誌を覗けば
 残業で夜19時、20時と書いてある。
 女性は全て淑女と呼びかけられている。
 新宿駅も、周辺を建設中の建物と舗装されていない地面が囲む。

 それがたったの35.6年前まであった。
 1960年代〜70年代前半。
 頭の中で知っていた知識はあるけど
 その時代がこんなに近いものだったのかと日々驚いている。

 この時代を過ぎてきた人たちが、今の近代社会の中にいる。
 それも、資料を見つけ出すのが難しいほど、
 まだ資料という形になっていないほど近くて遠い時代に。 
 
 日本という国に住む人の暮らしは本当に変わったのだろう。
 土の道の上で暮らしてきた人達。
 家の側には木があって、畑があって・・・・
 そんな暮らしを根本に持っている人達と
 家々に挟まれた小さな空と、アスファルトの道ばかりしか知らない。
 そんな私達とは、確かに、明らかにひとくくりに出来るほどの違いがあるのだろうと思う。

 小さなころ、大きな庭のある家に住んでいた。
 毎日毎日木に登り、夜が来るまで木の上で空を見ていた。
 ゆらゆらと風に揺れる枝にのって。
 
 小学生になった頃、庭がなくなった。
 隅々まで知っていた木も切られた。
 木肌の触感、枝ぶり、枝の先の、葉の付き方さえ今も覚えている。
 小学校の校庭の庭いじりはしていたものの、
 全身で自然に浸る。
 そんな場が無くなって何年か経ったころ。
 
 私は無性にイライラしだした。
 ひどく、怒りっぽくなった。
 辛くて、辛くて、登れる木を探した。
 公園の木はみんなきちんと手入れされ、
 子供が登れるような場所に枝は無かった。
 
 そんな私が救われたのは、知り合いの田舎に行った時。
 蓮田の、きちんと手入れをされた泥に足を突っ込んだ瞬間、
 自分のなかに溜まっていた何かが、堰を切ったように溢れた。
 ぼろぼろと涙が溢れて、気持ちが良かった。
 自分が、自分であっていいのだという当然のことがストンと納得いった。

 自然には、自分で自分を肯定し、後押し保証してくれるような力がある。
 自然の息吹を感じて育ってきた人には、そんな力が備わっているように感じる。
 近代社会に生きつつも、過去に自然と生きてきた経験のある方達と比べると
 私達はそんな場を人間関係の中だけで構築していかなくてはいけなくなっている様に感じる。
 人と人との付き合いだから、
 自然に対しているときよりも一層不安定で危うい場。
 しかも、人間関係が薄くなったといわれる現代の中で
 自分で0から築いていかなくてはならない。
 
 いうなればそれが、「最近の人」の危うさの根源なのではないかと私は思う。
 「最近のこども」はそんな時代に生まれた。

 「最近の人は些細なことでおたおたし、必要なところで平然としている」
 しばらく前、そんな言葉をタクシーの運転手さんが言っていた。
 
 庭の桐の木の生長を日々見つめていた時代。
 土ぼこりの舞う道を知っているエネルギッシュな時代。
 そしてアスファルトの時代。

 最近の世代は、ほんの少し前の時代の感覚をあまりにもわかれない。
 
 表現は悪いけれど、
 少し前の世代は私達に比べて少し打たれ強くて図太い。
 それは、自分に自信があるからだ。
 私にはそれは年を重ねるて生まれたものではなく、
 生得のものであるように思う。
 私たちの世代の図太さは、案外無知から来ている。
 無知の図太さは、繊弱な自信。
 自分を肯定する不安からもきているように思われる。
 
 生き物は、ある程度強くないと生きていけない。
 私が思う最近の人