背中越しの怯え


夕方、帰りの坂道を登っていると、
 向かい側から高校生か大学生ぐらいの男の子が2人連れでやってきた。
 左の人は藍色のTシャツにカーキのズボン。右の人は白のTシャツにジーンズ。
 相手の音がうるさいのか1m位の間隔を空けながら、
 2人して外側の手に携帯を持って話している。

 ぼんやりとすれ違う際、右の男の子の会話が聞こえた。
 「実はさ、すっごい良いバイトがあるんだよ。日給3万!凄くね?」
 と、彼が言う。
 
 日給3万・・・随分利率の良いバイト。
 つい耳をそばだてた。
 そして、耳を疑った。
 「嘘じゃないって、ドラッグの運び屋。大丈夫だって、その日だけちょっと学校サボってさぁ・・・」
 
 3万円で人生棒に振りますか・・・・?
 何がどう、大丈夫だというのでしょう。

 振り返ると、彼らはもう随分先に行っていた。
 右の少年はまだ電話で話している。
 私は「やめなさい」と言う事も、すぐ側の交番に行くことも出来ず
 じっと彼らが坂を下っていくのを見つめていた。

 もう随分前。
 私が高校生だったころ。
 渋谷の駅の山手線の改札辺りに公衆電話が7つほど並んでいた。
 携帯やポケベルを持たない高校生だった私は、
 たまに友人と連絡を取るためにそこを使うことがあった。
 何故かいつも中東系の顔をした人が何人もいて、
 「電話をかけるわけでもないのになんでいるのだろう?」などと思っていた。

 ある日、友人と電話をしていると、
 後ろからにゅっと浅黒い手が出てきて、
 受話器を持っている私をよそに電話機の下から小さな白い袋のものを取り出した。
 浅黒い手の持ち主は、にやっと笑って自分の唇の前で指を一本立てると、
 そのまま背後の集団に戻っていった。

 私は友人との電話を終えるとすぐ、近くの交番へ行き、
 見たことを話した。
 お巡りさんは「わかった」と言った。
 それから何度かその公衆電話の前を通ったけれど、
 私は二度とその公衆電話を使わなかった。
 その後も、中東系の人達が、そこでお金と何かを替えている姿を見かけた。
 それが何だったのか私には分からないけれど
 随分たって公衆電話も中東系の人々もそこから消えた。

 なにか言葉にならない怖さがあった。

 数日前
 日経新聞坂東眞砂子さんという作家さんのエッセイが載っていた。
 彼女は、
 自分が飼っている猫が子供を産むと子猫を自宅前の谷に投げ落とし命を絶っていると書いていた。
 何故子猫を殺すのかという理由は、
 生き物が子を産む喜びを持たずに生きるのはおかしく、
 人間の勝手な都合で去勢などの操作をするのはおかしい。
 人が猫たちの産む喜びを奪うのは間違っている。
 だが、生まれた子猫は血統書つきではなく引き取ってもらえない。
 野良猫になれば迷惑だ。
 去勢は人間の自己満足によるもので、猫を殺す辛さから逃れる選択だ・・・
 だが自分はその殺す辛さも引き受けるのだ。
 
 と、そのようなことが書いてあった。
 初めて読んだ時、何が書いてあるのか分からなかった。
 2度、3度読んでも・・・
 自分の思いが固まらずに疑問符を作る。
 何度か、ここに書こうと思ったけれど書けなかった。
 
 小さい頃、「スーホーの白い馬」という話を聞いた。
 「スーホーという歌の上手い少年が白馬を拾い、育て、
 王様が競馬大会で優勝したものに娘をやると宣言。
 スーホーが優勝したものの、
 王様は宣言を裏切り白馬を取り上げてスーホーと遠くへと追いやる。
 スーホーは追放されても取り上げられた白馬のことばかり考えていた。
 そんなある日、彼のゲル(テント)の外に王様の元から息も絶え絶えに逃げ出してきた白馬が・・・。 白馬は死んでからもスーホーとともにあることを望み、
 スーホーは白馬を馬頭琴という楽器に仕上げた。」そんな話だ。

 このスーホーの話のように、愛していたものと一生共にありたい。
 死んだものでも、楽器にさせてもいて欲しい。
 という気持ちは、分からなくはない。
 遺体の冒涜と思う方もいるかもしれないが、やはり心情的にはわからなくもない。
 だが、坂東さんのやっていらっしゃることはどうも違う気がする。
 
 実のところ私は歌舞伎を観に行くのが好きで、三味線の音が好きだ。
 けれど三味線は、猫の皮を使って出来ている。
 猫は大好きだけれど、
 三味線の音が好きだということはその過程で猫が殺されていることも確か。
 だから坂東さんが「猫を殺しているということ」にはなんとも言うことが出来ない。
 けれど、三味線を作る人は作る人なりに猫の命を奪うことへの後ろめたさを持っていると思うし、
 作るためでなければ殺すことはしないだろう。
 猫の命を奪うこと自体が良い行為とはとても言えないが、
 彼らは猫を殺し、伝統のために猫を活かすのだ。
 
 「もったいない」という言葉がある。
 最近あちこちで言われすぎて、随分本来の意味よりも軽くなっているような気がするけれど
 命を頂く時もそうだ。
 野菜でも、お肉でも、お魚でも、
 きちんと最後の最後まで活かして美味しく頂くことが
 食べ物になってくれた命への礼儀なのだと思う。
 亡くなってくれたのだ。無駄にしては失礼だ。
 命はやはり重いのだ。
  
 だが、坂東さんは常に家の中での猫の数を一定で留めるために子猫を殺すのだ。
 文の内容から察するに、
 彼女は殺したそれぞれの子猫たちを記憶するでもなく、
 ただ「子猫たちをまた殺した」と思うのではないだろうか。
 そうして「ただ殺された」子猫達の骸は、埋められもせずに谷底に散乱しているのだろうか。
 
 もしも自分がその子猫だったら・・・
 お母さんのミルクのひと舐めさえ出来ず、
 目も開かない状態なので光さえ知らず、
 産まれて初めて知るのは全身打撲と死への恐怖なのだとしたら・・・。
 
 あんまりにも辛い。
 
 私は彼女が生き物を飼っていることも論外だけれども
 彼女の考え方が、行動が、理解が出来ずに
 怖ろしい