世界は私を中心にしはしない

何もできなくても、側にいられれば何かにはなるのではないか。
 どんな遠くにいても、少しの声、少しの気配で何かにはなれる。
 何もすることが出来なくて、思いを伝えることが難しくても、
 思うことそのものが何かになるのではないか。

 おこがましいけれどそう思う。そう、信じたい。
 でも、そうでない、かもしれない。
 
 距離は関係ないといったって、
 歴然として距離は距離としてあり、
 離れていればそれぞれに時は降り積もる。
 
 会わないという時は、自分に注がれただけの濃密な時間を他にも与えており、
 過去はずるずる尾を引いたまま輪郭鮮やかに掠れていく。

 一生大切にしていく尾もあり、懐かしく思い出す尾もあり、
 新しくであったり、現在と交錯してより鮮やかになっていく過去もある。
 
 だから幾本、幾重にも重なった過去を束で持ち、
 頬ずり、引きずりながら一歩一歩時間を進む。 

 時折、
 過去のある瞬間を思い出した際、
 感情が、今の自分を押しのけて噴出することがある。
  
 表情も行動も特に変わらず、その瞬間も瞬き1回の時間ほどもないけれど、
 頭を当時の自分の感情が過ぎるのだ。
 
 そんな時、記憶のフラッシュバックは激しくて、
 一瞬にして頭の芯が昔の感情に酔ったかのようにくらりとする。
 今の自分の感情が押しやられ、希薄になるせいかもしれない。
 
 何かを好きだった記憶、何かに怒っていた記憶、
 そんなものがパッと頭で再生されると、
 その当時の強い思いに較べ、
 「今抱く数々の思いに純粋な強さがないのではないか」と、不安になったりもする。

 一生懸命に泣き、笑い、その時々に自分の心を見つめているつもりでも、
 忙しさにかまけ、今この瞬間に感じるべき思いをきちんと受け止めきれていないのではないかと。
 そんな風に。
 今をきちんと大切に出来ているのだろうか。

 大事な人達に辛いことがあったとか、苦しいことがあったと聞くと、
 その人達の上に違う時間のあることが怖くなることがある。

 なんでその時、側にいられないのだろうか。
 自分にできる精一杯を伝えたいだけ、伝え切れているだろうかと。

 聞くだけ、いるだけでも少しは何かの足しになれるのではないかと思えても、
 時間と場所が遠いことがとても悔しいことにも思える。
 自分に伝えたいと思ってくれる人に少しでも・・もっと、なにかが出来ないかと思うのに。
 出来ることはいつもほんの少しでしかない。
 
 世界が私を中心に回り、私と会う時にだけ他人の時間も動くなら、
 大切な人に何かがあるときはいつだって側にいられる。
 
 それでは人と会う楽しみが何もなく、
 まして、大切な人が複数ならば、なおさらそれができないことは自明の理。
 
 自分が、「同時に自分以外の存在ではない」ことが確かな分だけ、
 自分に出来ることには限界がある。
 だからこそ、嬉しいこと、自分に出来る精一杯が出来た時は幸せでしかたがないのだけれど。
 
 決して万能にはなれない。
 時折、それが無性に悔しい。

 少しでも、何かである自分になれているといい。