元号と西暦

 ぽかりと大きな欠伸をひとつ。
 まだお布団の記憶に支配されている体に今日の空気を送り込む。
 喉や鼻が少し乾いたような気がして、湿気の多い夏が少し恋しくなる。
 息をするだけでツンと痛みを感じるほど寒い季節も見えてきた。
 今年もあと3ヶ月を切った。

 ただ今は、西暦2007年、平成19年。
 来年、平成は20年目を迎える予定だ。
 
 昭和が終わり、20年目を迎えるということになる。
 昭和が終わった日、家族でTVを見つめていた。
 
 固い表情を崩さず、忙しげに出入りする黒い背広のおじさん。
 お医者さんの沈痛なお顔と白衣。
 どこの番組もどこと無くいつもより静かで、息詰まるような緊張感に満ちていた。
 別のことをしていても、日本中の意識がその容態に集中しているようで、
 子供ながらに「何か大変な事が起こっている」「見逃してはならない」と
 思っていたように思う。
 
 昭和63年の12月暮れ、我が家は引っ越した。
 荷物は運び込んだもののカーテンは無く、
 窓は建築現場で張られていた茶色の厚紙が張られているだけ。
 お湯を出すのに使われていなかった水道菅は冷え切っていて、
 お風呂のお湯は2時間経っても温まらない。

 家の中はまだ塗料の若々しい臭いに満ちていて、
 大きなダンボールが梱包されたまま山と積まれていた。
 引越しの作業そう簡単になされるものではない。
 のんびりやっていく予定だった。
 
 だが、引越し当日、荷解き業務は急展開。
 「明日からニューカレドニアだ」
 22時に帰宅した父が爆弾発言を投下した。
 定住用荷解き業務などやっている余裕はない。
 「第一便で日本を発つ」チケットが突然取れたというのだ。

 「出発まであと何時間?」
 
 まだ、成田エクスプレスも無い時代。
 空港行きは上野から重いトランク抱えて行くしかなかった。
 (しかも上野の駅にはエスカレーター・エレベータ無し) 

 旅行大好き一家で、準備が早い方だとはいえ、引越ししてきたばかり。
 何がどこにあるのかさえもわからない。
 「Tシャツどこ?」「帰りの服!」
 「パスポートは?」
 「歯ブラシ」「シュノーケルは?」
 「入れ忘れ・・・」「あっちで買おう!」

 寒い冬の日だった。
 出来たばかりの家は暖房を入れてもまるで暖かくならず、
 家の中で喋ると息が白く染まった。
 ごはんは昼のうちに買ってきたもので(コンビニもまだあまり無かった)、
 昭和天皇陛下の容態について語るTVの周りには、ダンボールの殻がまだ付いていた。
 
 あわてて食事をしながら母が「引越しの荷物をそのままにして、泥棒に入られないかしら」と言うと、
 「こんなカーテンも無い家に盗られて困るものはあるとは泥棒だって思わないよ」と父。

 実際のところ、こんな時に普通旅行に行くものじゃない。
 普通ではない、だから父の判断は正しかった。

 ご近所さんも年末のカーテンもついていない家に1日灯りが灯ったからと言って
 引越しの荷物が全て運び込まれたとは・・・とても思えなかったらしい。
 
 その晩は子供部屋のベットもまだ梱包されている状態で、
 深夜、旅行の荷造りを終えると兄と2人、両親のベットに潜り込んで家族で眠った。

 成田空港についてから、昭和天皇陛下の容態が更に悪くなったことを知った。
 空港に設置されたTVの側に座る大人たちは皆、言葉少なに画面を見つめていた。
 私は戦争の記憶が遠い昭和世代。
 上の世代はどんな思いであのニュースを見たのだろうと今更ながらに思う。
 
 年が明け、日本に帰国してしばらくすると昭和天皇陛下崩御となった。
 元号が変わり、硬貨が変わった。
 美智子様皇后陛下になった。
 当時、両親たちの世代は美智子様を良く知っていたけれど、
 私たちの世代はそこまで知らず、名前を聞く位だったのに・・・
 あの頃、昭和特集や美智子様の特集があったのだろうか。
 1度だけ偶然に言葉を交わしたことがあるからかもしれないけれど、
 今ではすっかり「美智子様、上品、素敵」と頭に刷り込まれている。
  
 始めに意識したころは「吉永小百合」と雰囲気が似ている。
 と、思っていた程度だったようなきがするのだけれど、不思議なものだ。

 あれから来年で20年。
 昭和の頃は元号で誕生日を聞いて西暦を聞くのが普通だったけれども、今では逆。
 その時々の元号は、その時々の思い出と関わりあって人々の中に時代を形作ってきた。
 これからの元号と西暦、日本人はどんな関わりをもっていくだろうか。
 ふと、そんな事を思った。