無意識的な意識、意識的な無意識

 ここ数日は寒いけど・・・
 今日はついついヒーターを点けているけど・・・
 暖かな季節になった。

 小さな虫も出てくるし、庭であやめの花も咲いた。
 電車の車窓からはサーモンピンクのポピーの群れが揺れているのが見える。
 
 高層ビルに住んでいるわけでない。
 窓を開けていれば漢字そのままに「五月蝿い」方も入ってくる。
 ガラスに引っ付いて、「なんで外に出れないのか!」と怒るくまんばちも迷いこんでくる。
 
 そんな季節だから
 もし
 家の中で小さな蜘蛛を見かけても
 あきらめるしかない。
 窓を開けないなんて無理だから
 虫が0になるわけもない。
 ムカデでないだけ良しとするべき。
 
 追い出すか、退治するか、
 男性陣のように見ぬ振りをするか・・・ 
 どれかしかない。

 虫だからといって簡単に殺したいとは思わない。
 けれど、家の中にずっといてもらいたいとも思えない。
 それが正直なところ。

 お風呂場の
 小さな窓の
 細かな網目の網戸の向こうから
 たまに訪問客がある。
 
 お風呂場の白いタイルの壁に
 1mmあるかないかの小さな命。
 
 「見つけなければ良かった」と2.5の視力を悔いる。
 つまみだすほど優しくもない。
 
 五分にも満たない虫だもの。
 「殺したくない」
 「けれどもあまりいて欲しくもない」
 頭の中を言葉がよぎる。
 
 何も考えず
 水で流してしまうことはもちろんあるけど。

 自分がのんびりとしたい時、極力殺生はしたくない。
 そんな時
 1、見なかった(忘れてしまう)ことにする。
 2、意識的にそこを避ける。
 を、考える。

 もちろん、それで成功することもあるけれど・・・
 本当に忘れてしまって、シャワーを浴びせてしまうことがある。(おそらく)
 意識的に避けているのに、なんの拍子かシャワーの飛沫がそちらへ飛んでしまうことがある。
 
 そんな時
 意識的な無意識と無意識的な意識を考える。
 1度は「虫がいるぞ!」と、認識しているわけだから
 自分が忘れたと思っても
 無意識な部分で「あそこにいるのを忘れちゃいけないぞ」
 と思っている・・・・の、かもしれない。
 「殺したくない」と思うと同時に「いて欲しくない」と思っているわけだから
 無意識な中で「いて欲しくない」という意識が勝っている・・・の、かもしれない。

 意識的に虫のいる場を避けていたって
 避けることを意識するあまり
 手がそちらのほうへ無意識に傾くこともあるかもしれない。

 お風呂場を出て虫がいないと
 「自分は一体どちらの自分で虫を殺してしまったのか」
 と、考える。
 無意識的な意識と意識的な無意識。
 責は一体どちらにあるのか。

 
 初めて思いついた中学生の頃から
 そんなことがあるたびに考えている。
 
 くだらないことかもしれないけれど
 考えることはないですか。