色合い

パラパラと少し硬質な音を立てて金色の葉がハラハラと風が吹く度に道路へ落ちる。
 銀杏の葉が落ちると、そっけないほどにグレーな道路がぱっと華やぐ。
 銀杏は生きた化石
 日本や中国にはあっても、たしかヨーロッパには自生していないもの・・・だったような気がする。
 日本では何処かしこで見られるものが、他の国では化石でしか見られない。
 同じ時間の元で生きているのに、まるでどこか違う時間、
 似ているけれども違う時間のねじれを持った世界同士なのじゃないかと、不思議な思いに誘われる。
 見上げると、銀杏の枝はぐるぐるとモールでも巻いたように葉に囲まれている。
 
 「この葉の生え方・・・・・まるで椎茸の原木栽培みたい・・・」
 華やかな銀杏の枝を見てついそんなことを思う。
 普通、木々の葉っぱは枝先につく。
 枝の中ほどからひょこひょこと顔を覗かせてくる葉っぱなんてまず見ない。
 樹木の中では珍しく、雌株雄株があるのは知っていたものの・・・。
 あの、素晴らしく華やかな銀杏の姿は、
 枝全体から湧き出してくる葉の前後の遠近が奥行きを持たせているのだと、初めて知った。



 小さな頃は、見えているのに見ていなかった。
 改めてみるとそんな発見にきづかさせられる。
 落ち葉の吹き溜まりを踏むと、しゃわしゃわと音を立てて落ち葉の間に道筋ができる。
 私が作った落ち葉の間の細い道を、冷たい風がかき回して消してゆく。
 
 少し茶色くなった葉と、金の葉が混ざってなんともいえない色をしている。
 最近は焚き火をしてはいけないのだそうだけど、火を焚いて、
 茶色と金と朱金の交じり合いを楽しみながら、
 また、昔のように焼き芋を食べたいと思う。



 ぱちぱちと爆ぜる火花は、
 焚き火にあたる人の頬をほこほこと染め、
 脇をゆく人の速度を緩めたりする。
 焚き火に当たって真っ赤になった顔を見合わせ、
 手をこすり合わせていたのが懐かしい。
 
 目の前に落ちている葉っぱを拾うと、銀杏の葉の先端は幹と同じ色に染まっている。
 黄色の葉を、そっと幹にあてがってみる。
 黄色と茶色、当然ながらその色あわせに違和感はない。



 洋服などの色合わせをする時は必ず、どこかに似た系統の色があることが前提。
 今更なことだけれど、葉っぱは幹と同じ木から出ている。
 今は茶色くてわからなくても、
 その幹の中には鮮やかなこの黄葉の色も溶け込んでいるのだろう。
 
 その色が白で無い限り、色を乗せれば乗せるほど色は暗く深くなってゆく。
 幹の色もまた、ただ1色の色で出来ているのではなくて
 様々な色の重なり合いから醸しだされた色なのだと、そんな風に思う。



 考えてみれば私達の肌であっても、
 まず肌の、その下の血管の、様々な色が重なって一つの色としての姿を作り出している。
 そうして一人ひとり別々の、
 それでいて人種ごとにしっかりとした共通点のある特有の色合いがかもし出されている。
 
 人も、他のどんな生物も、
 それぞれがそれぞれになるまでに数え切れない様々な結びつきがあり、
 それぞれの葉脈、それぞれの毛並み、それぞれの肌。
 総合的な色合いを完成させている。



 これって、当たり前にしているけれど
 まるで奇蹟みたいにすごいことなんじゃないだろうかなんて、そんな風に思った。