犬とおばさん

「こら!」
 道の脇から出てきたおばさんが突然叫んだ。
 ビクッとしておばさんの視線を辿ると、叫ばれて凝固した黒犬がいた。
 「だめでしょ!」おばさんがもう一度叫んでそちらへ駆け出すと、
 黒犬はだっと駆け出した。
 
 艶々とした真っ黒な毛並みが目の前を横切る。
 黒犬が目の前を横切ると何かあるだろうか、と、私がぼんやりと思う間も、
 おばさんはピンクのエプロン姿で右手に引き綱を持ち、犬の後ろ姿を一生懸命走っていく。
 宥めながら近づいた方が良いのだろうけれど、いざその時にはそんなことは思いつけない。
 
 犬の体格はいいものの、浮かぶ表情は若い。
 まだ1歳そこそこではないだろうか。
 何mか先まで走って、キラキラとした瞳でこちらを見つめる。



 おばさんが2mの辺りまで近づくたびに、またダァっと走って待っている。
 おばさんは真剣なのに、
 あちらはまるで「ねえ、お母さん、僕、こんなに走れるんだよ」
 「走るって楽しいねぇ、近づいたり、走ったり、嬉しいねえ」と言わんばかりだ。
 
 尻尾がバタバタと振れている。
 足の筋肉が、背中の毛並みが、冬の淡い陽光の中でも、
 犬の高揚感があらわれるように力強さに輝いている。
 
 昔我が家にいた犬も、よく脱走しては追って行くこちらを見ながらあんな表情をしていた。
 引き綱をせず自由に走ることは犬にとってどれだけ気持ちの良いことか。
 自分の好きな場所を好きなスピードで走り、歩き、休む。
 犬達には普段その自由はない。
 彼女が脱走するたびに、こちらに向けてくるキラキラとした瞳に
 人間社会で飼うことの日常がどれほど犬にとって不自由な生活かと考えさせられたことを覚えている。
 
 もっとも生まれてからずっと家の中にいて脱走せず、
 その気持ちよさを知らなかった場合は、不健全はともかく不幸かどうかわからないけれど・・。



 とはいえ、犬がいるのは人間社会で・・・。
 特に日本など、近代化が進んでいるといわれるような所では、
 犬に人間社会のルールに従ってもらわなくては、社会が犬達を殺してしまう。
 
 時間があれば確保を手伝いたかったけれどその時間も無く、
 気がつけば、おばさんと黒犬は随分遠くの風景に走り去っていた。
 
 寒いけれど暖かな陽射しの照る一昨昨日の昼のこと。