暑さにげんなりしています

人間には汗をかくための仕組みがこれだけあるのか。
 人はこんなにも水分を持っているのか。



 と、日々思う。



 思ってもみなかったにも汗の噴出孔があり、「人の体って凄いなあ」と、
 自分ごとながらに観察してしまう。
 
 ただじっとしているだけでも、プールで泳いでいるような気分だ。
 陽射しの下、少しほうっておけば肌が塩でキラキラしてくる。
 塩は水を寄せ、水は塩のもとへ行く。
 
 のんびりとしていられる日は1日に何度も水で流すのだが、
 外へ出ようとするたび、もう洋服が着替えたくなる。
 これならば涼しいと思っても、玄関口でもうげんなり。



 私が小さな頃はここまで暑くはなかったわけだから
 私が使ったクーラーやヒーターや、もろもろのやってきたことが
 この暑さの一部となっているんだろう。



 最近、エコ、節電に向いた省電力タイプの電化製品などが多いけれど・・
 節電に向いた蛍光灯の白い灯りは好きではないし、
 結局の所、極力使わないのが一番ではと最近思う。
 
 まぁ、生活を変えるのが面倒だから新製品が出るのだろうけれど。 



 このところ、掃除はもっぱら掃除機を使わず
 拭き掃除ばかり。
 電力ではなく人力を使っているから、少しはマシかもしれない。
 なんて。



 それにしても、すでに立秋は過ぎたそうだが・・・・信じられない。
 先に涼しさが待っていると信じきることができないでいる。
 
 思った瞬間、頭上でごろりと雷がなる。
 少ししたらちょっと涼しくなるかもしれない

夏の涼

 ふっくらとした花びら型をした月が地平線の上辺りを朧に漂っている。
 湿り気のある風が、触れた瞬間の熱さと通り過ぎてゆく涼しさを残して去って行く。
 蝉の声がジージーと風にまとわりつくように聞こえて、夏の真っ盛りにいることに
 ふと気づく。
 
 昼のうち、30度を超える日を幾日もすごしていると、昔見た光景が事あるごとに思い起こされる。



 どこかのデパートに飾られた大きな氷の塊が、目の前でジャッジャと音を立てて
 削られて新しい形ができて行くのを見ていた時の事。
 飛んできた薄い氷片は肌に触れた途端水になって流れていった。
 あの夏は蝉が鳴いていたような気がするし、風鈴も涼やかになっていたように思うのに、
 氷が水に変わった瞬間ばかりを思い出す。



 お祭りで取ってきた水風船を割ってしまったことも合った。
 赤地に青と黄色と白の細線がいくつもの丸を描いていたそれが、ポンポンと叩く
 度、手元に戻ってくるのが楽しくて。
 何度も叩く内ぱしゃっと弾けて浴衣を濡らした。
 顔もぐっしょりと濡れ、何が起こったのかとキョトンとしていると
 右手の中指の先につながったゴムの先に水風船だったビニールの切れっぱし
 が水に触れてつやつやと輝きながらゆれていたのに気づいた。
 魔法のようなワクワクした水風船を膨らませていたのが、ただの水だったことが不思議で
 ずいぶんぼんやりしていたように思う。
 
 あの時の飛沫は驚いたこともあって、とても冷たかったような気がする。
 
 水は、跳ねたり滑ったりだけじゃない。
 しゅわしゅわすることもある。
 小学校の夏休み、少し長く外へいると鼻の脇に汗をかくようなそんなころ。
 プールへいくといつも先生がいた。
 大きな麦藁帽子を白い紐でしめ、白いシャツ、黒いハーフパンツで太いホースを持ち
 みんなが揃う前に少しでもプールサイドを冷ますのだと水を撒いていた。
 
 小学校の更衣室は、人口密度が高く、暑いこともあり、私たちはいつも急いでプールサイドへ
 走った気がする。
 先生が撒く水に踏み込み、しゅわしゅわとした泡が熱いタイルに染む前に足の指の間を
 すり抜けてゆくのをキャイキャイと楽しんだものだ。
  
 山奥の川縁、滝の袂、雨の中。
 この夏、涼んだ瞬間を思い起こして涼を取っている。

雪の日

見上げると大きな雪の塊が、睫毛に被さる、髪にかかる。
 一片の雪が地上へ落ちてくるのを目が追う間も無数の雪が降り積もっていく。
 睫毛に掛かった雪は、重みに何度か瞼を瞬くとフッと溶けて消えてしまった。
 
 雪の降る日はいつもどこか忙しなく、音もなく降り続くそのために
 雪を踏みしめる音のような切なさが押し寄せてくることがある。
 だからなにということもないけれど。



 目の前の交差点をポメラニアンを連れた人がいく。
 寒そうに肩をすくめた人が、
 豊かな毛皮に覆われた小さな肩をすくめる犬を連れている。
 肩をすくめているせいか、ポメラニアンの一歩一歩の歩幅は狭い。
 毛足の長いふわふわとした鞠のような塊が小さなつま先をできるだけ雪にふれさせぬように
 ちょんちょんと細かくはねるようにして歩く。
 二足と四足。
 人と犬。
 冬の寒さはお互いの散歩のペースが変えてしまう。
 我が家に犬がいた時は気づけなかった種の相違に気づくと、当時がちょっと申し訳なくなってくる。
 
 寒い日の散歩は早足で、ぐいぐいと引き綱を引いていたような気がする。
 気づくのも、今となっては遅すぎるけれど。
 
 雪は音もなく降り、つもり、白に白を降り重ねてゆく。
 誰もがなにも話さず、小さく吐く息の音だけがたくさんの人が
 そこにいることを知らしてくれる。
 淡々と世界を染めていく白が、まるで時間のようで
 昔を振り返っても、前を向かねばいけないのだと、厳しく、叱咤してくれている
 様な気がする。



 小さな自分がいぬの散歩をしている光景が瞼をよぎった。
 積もる雪を踏みしめ、白い息を吐きながら、家へ帰った。
 
 そんな日もある

夏の涼

 ふっくらとした花びら型をした月が地平線の上辺りを朧に漂っている。
 湿り気のある風が、触れた瞬間の熱さと通り過ぎてゆく涼しさを残して去って行く。
 蝉の声がジージーと風にまとわりつくように聞こえて、夏の真っ盛りにいることに
 ふと気づく。
 
 昼のうち、30度を超える日を幾日もすごしていると、昔見た光景が事あるごとに思い起こされる。



 どこかのデパートに飾られた大きな氷の塊が、目の前でジャッジャと音を立てて
 削られて新しい形ができて行くのを見ていた時の事。
 飛んできた薄い氷片は肌に触れた途端水になって流れていった。
 あの夏は蝉が鳴いていたような気がするし、風鈴も涼やかになっていたように思うのに、
 氷が水に変わった瞬間ばかりを思い出す。



 お祭りで取ってきた水風船を割ってしまったことも合った。
 赤地に青と黄色と白の細線がいくつもの丸を描いていたそれが、ポンポンと叩く
 度、手元に戻ってくるのが楽しくて。
 何度も叩く内ぱしゃっと弾けて浴衣を濡らした。
 顔もぐっしょりと濡れ、何が起こったのかとキョトンとしていると
 右手の中指の先につながったゴムの先に水風船だったビニールの切れっぱし
 が水に触れてつやつやと輝きながらゆれていたのに気づいた。
 魔法のようなワクワクした水風船を膨らませていたのが、ただの水だったことが不思議で
 ずいぶんぼんやりしていたように思う。
 
 あの時の飛沫は驚いたこともあって、とても冷たかったような気がする。
 
 水は、跳ねたり滑ったりだけじゃない。
 しゅわしゅわすることもある。
 小学校の夏休み、少し長く外へいると鼻の脇に汗をかくようなそんなころ。
 プールへいくといつも先生がいた。
 大きな麦藁帽子を白い紐でしめ、白いシャツ、黒いハーフパンツで太いホースを持ち
 みんなが揃う前に少しでもプールサイドを冷ますのだと水を撒いていた。
 
 小学校の更衣室は、人口密度が高く、暑いこともあり、私たちはいつも急いでプールサイドへ
 走った気がする。
 先生が撒く水に踏み込み、しゅわしゅわとした泡が熱いタイルに染む前に足の指の間を
 すり抜けてゆくのをキャイキャイと楽しんだものだ。
  
 山奥の川縁、滝の袂、雨の中。
 この夏、涼んだ瞬間を思い起こして涼を取っている。

宮古島で会ったもの

「昨日まで暖かかったんですよ」と、タクシーの運転手さんが言う。
 半袖を着た宮古島の人達は、予想外の寒さに皆寒そうにしている。
 運転手さんの袖から覗く腕にも、しっかりと鳥肌が立っていた。

 車の免許は2年前にとったきり。
 運転技量は命が幾つあってもなんとやら。
 本人元より周りも怖い。
 両親がゴルフへ行った日は、自転車を借りて島内を巡った。

 この季節、宮古島には強い風が吹く。
 「今の時期、自転車借りる人ほとんどいないから、夜まで貸し出しOK」と、
 係りの人が南国の笑顔で笑う。
 どんよりと曇った空、セーターにウィンドブレーカーの完全防備。
 ホテルの外へと漕ぎ出した。
 
 が、ホテルの出口を間違い、通用口から出た瞬間に自分のいる場所がわからない。
 ホテルの脇というのは分かるのに、目印が何にもなくてわからないのだ。
 ホテルの真横で、畑作業しているおじさんに現在地の御伺い。
 観光地図と、おじさんの言葉を頼りに漕いで行き、地図が読めない自分を再認識。
 目的地設定をあっという間に放棄して、風に向かって行ってみよう!次は左に行こうかな。
 あっちの景色が良さそうな・・あ、この細道面白そう。
 そんなことを考えながら、太い県道、サトウキビ畑の中の細道にどんどん自転車を乗り入れていく。
 
 3mはありそうなサトウキビとサトウキビの間を風に逆らってぐんぐんといく。
 宮古島の電信柱は東京よりも丈が高く、電線の位置も上。
 もしかしたら、サトウキビで電線が切れないようにそうしているのかもしれない。 
 サトウキビは頭にススキに似た穂をつけ、風に煽られてざわざわと大きな音のうねりを作る。
 ふと、その穂がトウモロコシの花にも見え、サトウキビが『砂糖黍』だということを思い出す。
 同じ「黍(きび)」なのだから似た花がつくのは当たり前だと、当たり前のことに思い至って
 1人でクスクス笑ってしまう。

 どこにもあるサトウキビの茎は直径が2〜3cmもあってまるで細い木の幹よう。
 昔の人はそれを手斧で刈っていたというのだからどれだけの労力だったのだろうと思う。
 そして、木々の生い茂ったジャングルのような所を、一面サトウキビの畑にした人たちの苦労を思う。
 珊瑚の島は、掘れば砂利が出てくるだろう。
 土は浅く、人々が実りを求めるような植物は中々根を張りにくかったのではないか。
 そんな風に思った。

 宮古島の道は綺麗に舗装されているところが多く、車は制限速度を守りのんびりとした様子が伺える。
 けれど、島にクラス動物たちにとっては一概にそうではないらしく、少し大きな道には街路樹から
 落ちた実と共に、車にぶつかったらしい鳥の姿が何度か見受けられた。
 この時期、風が強くて低空を飛ぶ鳥が多いようであったのも自己の一因かもしれない。

 舗装された道から、畑の間の赤土の道へと乗り入れると、今度は事故にあった蛙達の姿。
 島の中心地ではまったく見られないその光景を、これも島の一部だと心に刻む。

 右から左、左から右。
 段々に道は分からなくなり、道を聞くにも丈の高いサトウキビ畑の真ん中には誰もいない。
 へとへとになっても、ただ漕ぐしかない。

 宮古島は日本でも有名なトライアスロンの会場だそうだけれど、そんな状況では前に行くしかないと
 思い切れてしまうからだろうかなんて思ったり。
 (レースの競技路はきちんと舗装されたもっと賑やかな道なのだろうけれど)
 強い風にへこたれそうになりながら、またぐっぐとペダルに力を入れた。

 坂を上りきると、長い下り坂。
 海が近いせいか貸し自転車は所々錆びていて、ハンドルを突然動かしたりすると
 鳥のようにキチキチと音を立てた。
 
 舗装された道路の交差点の真ん中で見る空は広い。
 あまり高い建物はなく、四角いコンクリートで出来ている所が多い。
 TVで一般的に見掛ける瓦の家に混じって、黄色や赤に塗られた四角い家があったりする。
 その四角い家を見て、ふとフィリピンなどの報道でよく見る家を思い出す。
 台風が多いところでは家の造りが似てくるのかもしれない。
 
 家並み、サトウキビ畑、家並み・・・・
 ある家の裏手でお墓をみた。
 四角い石造りの廟のような石造りの祠が10以上並ぶ。
 1つの祠が目算で横2.5m縦2mほど。
 1つ1つの祠には違った彫り物がされている。
 
 すこしだけ荒れた草地の中にあったそのお墓は、
 まるで、一つの集落のように見えた。
 お墓の鬱々とした感じはなく、お墓はただ「ご近所さん」達のお家のようで、
 こういうお墓はちょっと良いなとおもった。
 
 足がへとへとになった頃、来間島への橋のたもとに着いた。
 宮古島から1.5〜6キロ程の場所にある小さな島で、宮古島からは橋伝いに行くことができる。
 
 もうくたくたのくせに、どうしてもそこへ行きたくなって、
 ペダルを踏んだ。
 脇を車が勢いよくかけっていく。
 海の上を行く橋は風が凄まじい圧力で襲ってくる。
 台風のような風の強さに掬われ、
 1m以上ある橋の欄干から海へ落とされてしまうのではないかと
 背中に冷たい汗が流れる。
 
 振り返れば橋も中盤、ただ、前へと進むのみ。

 脇を通る車も、強風にゆらりゆらりと揺れる。
 
 眺望はいいのだけれど、橋を渡る間は車も怖いのだろう。
 橋を抜けると車は勢いよく島を駆け上っていく。
 
 石油は疲れを知らない燃料だが、人間は違う。
 橋が終わってすぐに始まる急坂にげんなりとしてしまったその時。
 橋のすぐ脇に小さな道があるのを見つけた。
 
 ベージュの石畳で舗装されたその小道は、あまり人が来ないようで石畳の間に丈の高い雑草
 気持ち良さそうに生えていた。
 奥へと続く道はうっそうとしてうかがいしれない。
 何て魅力的なのか・・・・・。

 自転車を止め、奥へと進んだ。
 突然、ディズニーランドのアトラクションで見るような
 ジャングルの雰囲気を持った道があった。
 へんな言い方だけれど人工の、人がイメージする穏やかなジャングルの小道。

 頭上高くに緑の天井、絡まるツタ、小さな小鳥たちの囀り。
 思った以上に長く、上下し続く道を行く。
 外よりも、緑のアーチの中は随分暖かい。
 湿り気を帯びた空気が、優しい花の香りを運んでくる。

 いつの頃、どこから落ちたのか、大きな枯れ葉が道を覆い、足元でかすかな音を立てる。
 ほんの少し向こうに車の通る道があるとは思えない。
 先ほどまで見ていた世界とはまるで違う世界で、秘密の花園へ潜り込んだような気がする。
 外は、東京と変わらないような寒さなのに。

 その時、目の端を何かが動き、どきりとそちらを振り返ると・・・
 頭の上を数匹の蝶がふわふわと飛んでいた。

 こんな寒い時期に見ることなどないと思っていたのに。

 その羽は、開くと柔らかな光のこぼれるようなミントグリーンで、
 どこか外の世界と隔絶されたような小道にしっくりと溶け込んでいて。
 声が出なかった。
  
 ふわふわと行く蝶にふらふらと付いて行き、
 ぼんやりとそれを眺める。
 
 人工的なのに、人に忘れられたようなその小さな緑の小道は、
 時間にさえも忘れられているかのように時がゆっくりと流れていた。

 その小さな道で過ごした時は、宮古島で一番忘れられない時間になった。 

そんなこと、出来なければ良いのに

「そんなこと、出来なければ良いのに」と、
 新聞で脳死判定やドナーの記事が出ると思う。
 
 誰だって自分や親しい人が死ぬのは嫌だし、
 どうしようもない状況で術があるなら縋りたくなる。
 当たり前だ。
 
 脳死、植物状態と言われる人にも血液は流れ、息をしている。
 状況に応じ、機械が無理にそうさせているにせよ、そうした状態にあれば
 お医者様がなんと言おうと生かされ、生きているのだと思う。
 
 医学が発達しなければそうした状況を続けることは出来ないだろう。
 だが、術があれば、一分、一時でも傍にいたい。
 生かすことで、意識が戻る可能性は全くの0ではないと知れている。
 戻らないまでも温かな思い出のある人の傍にいられる。
 ならばどうしてそうせずにいられないだろうかと思う。

 半面、移植ドナーを待つ人のことを思う。
 辛いだろうと思う。
 そのままならば確実に死を迎えるかもしれない。
 一生痛みとともにいるかもしれない。
 誰にでも、訪れるものであっても、明らかに目の前にそれが提示されれば、
 怖いだろう。辛いだろう。
 本人も周りも、何かせずにはいられないだろう。
 とことんどうにかしなければいられないだろう。
 移植でそれが治るのならば・・・確実に治る可能性が高いとわかっていたら・・・
 絶対に望んでしまうことだろう。

 術があるなら、どんなことでも縋りたくなる。
 それが重要な器官であればあるだけ、命を求めることは他の命を求めることになる。
 脳死状態の人に対してだけではなくて、他の人に対してだって、
 求めたいという気持ちはきっと湧くのだろう。
 
 最初から、そんなことが出来ないならば、
 そんな気持ちも生まれないものを。

 医療のことだけではない。
 「出来なければ望みも生まれないものを」と思えるものが一体どれほどあるものか。
 可能性があるものを「諦められない」のはいたって当たり前のこと。
 「諦める」必要のなくなった沢山の事柄の蔭に、
 「諦められない」多くのものがなんて沢山あるのだろう。
 世の中のことを知るたび、それぞれの「諦められない」の関係性が見えてきて
 時折ひどく切なく哀しい。

一期一会

 北風に、音を立てて欅並木の梢が揺れる。
 ザザ、ザザァと頭上に音の道が行く。
 先の尖った薄茶の葉っぱが、次柄次へと降ってくる。
 道路は所々に枯葉の吹き溜まりを作り、カサカサ、カラカラと葉の転がる音に満ちる。
 そうして枯葉たちは車が通るたび、クシュッ、カシャッと音を立てて四散する。
 
 誰かの足元で、木の葉の吹き溜まりが蹴散らされていく。
 木枯らしは、道行く人々の距離を縮め、
 時折悪戯のように枯葉を人の襟元へと差し込んでゆく。
 衿元から忍び込んだ欅の葉に、冬の寒さを感じた。



 ふと、感じた寒さに、先日見つけた小さなお店を思い出した。
 何の気なしに通った細道。
 暗い道に一軒だけポツンと灯りを道に落としていた。
 その寂しそうな情景が妙にこの寒さと結びつく。



 お店の中では全然寂しくなかったけれど・・・ 



 
 暗い細道なのに、明かりのついたその一軒に妙に惹かれて、
 よばれるようにふらりと入った。
 ショーケースに商品は無く、あるのは保存性の高い焼き菓子のみ。
 ぼんやりと焼き菓子を物色していると、
 お店の人に「お客様でキャンセルが出たので、ケーキ召し上がりませんか」と聞かれ
 即座に頷きカフェに入った。
 
 カフェにいるお客さんは1人。
 ケーキを譲ってくださってありがとうと言うと、
 「僕はまだありますから」と彼は言った。
 空っぽのショーケース、まだあるケーキ。
 「雑誌か何かの取材ですか?」と聞くと、「いえ、いつもなんです」と笑う。



 喋っているまにケーキが来て、
 「この青りんごのムースが、チョコのスポンジが・・・美味しい美味しい」と食べながら
 ふと横を見ると、彼の前には二皿目。



 幾つ召し上がるのかと伺うと「いつもは3つと」照れくさそうに彼は笑った。
 そうして「差し上げたのも美味しいんですが、これが又美味しくて・・・」と、
 二皿目のチョコのタルトを切り分け譲ってくれた。
 ほろ苦く甘いチョコのタルトはサクサクとしたタルト生地と絶妙のバランスで、
 「美味しい!」というと、「そうでしょう」とあちらもニコニコ笑う。
 「お気に入り、貰っちゃって良いんですか?」と、既に食べつつ念を押す。
 
 彼はふふっと笑って
 「僕はね、この店が神戸にあるころからっ通ってて、これが特に大好きなんです」
 と嬉しそうに嬉しそうに残りのタルトを口へと運ぶ。 
 「東京から?」「ええ、東京から」
 
 きっとお互い食いしん坊なのが分かるのだろう。
 「美味しいものにはそう、そうしますよね」そんな思いを目と目で語った。
 そんな気がした。
 
 お店に入りはしたものの、次の予定が迫ってて、
 「譲ってくださって有難うございました」と席を立つ。
 
 そうして小さな焼き菓子を買い、お店の人にそっと頼んだ。
 「あの人の会計の際、ご馳走様と渡してください」
 お店の人は目をきらっとさせて「いいですね」と共犯者となりフフッと笑った。
 
 頂いたケーキのタイプを考えるに、きっとこの焼き菓子がお好みだろう。
 そんなことを勝手に考えサプライズ
 ご馳走様の小さな気持ち。



 驚かれる、その瞬間が見られないのは残念だけど・・・
 口福の機会は一期一会なものだから。



 帰宅して、そのケーキ屋さんを調べてみると、
 午前中にはショーケースの中身が売切れてしまうという超有名店だったと知った。
 私がふらっとお店に寄った時間は18時過ぎ。
 譲ってくださった方は常連で、特別にケーキストックされていて・・・。
 その前でも後でもきっと駄目。
 本当に一期一会の時だったのだと。
 いつかどこかでまたお会いする機会があったら面白いのだけれども。



 人と人とは、何かしらで擦れ違い、何かしらが生まれる。
 ほんの一時の邂逅であったにせよ、そうしたささやかな日々の想い出はほこほこと胸を温める。
 
 どうぞ皆様にもちょっとした
 嬉しい出会いが沢山ありますように。



 因みに、私が偶然入ったケーキ屋さんは
 西洋銀座裏手のイデミ・スギノというお店。
 もし、銀座で午前中にぽっかりとあく時間があったら、立ち寄ってみるのも良いかもしれません。