落ち葉焚き


 段々に東京も寒くなってきた。
 日付の変わる頃、ふと空を見上げると、オリオン座が天鵞絨のような夜の中で静かに輝いている。
 街灯の灯りが無くても夜道を歩けそうで、街灯を全部取り払ってしまいたいような気になる。
 白い星、赤い星、季節とともに星が大きくなってきたと思う。
 先月北海道へ行ったとき、札幌は見事な黄葉の季節となっていた。
 あれからひと月。
 今日、道の端を見ると近所の柿の葉が真っ赤に色づいていた。
 季節は寒さ、暖かさとともに忍び寄り、ふと気が付けば辺りを包む。
 そろそろ北風が吹く。

 この季節になると、週末にいがらっぽい風が吹いたことを思い出して少し切なくなることがある。
 落ち葉焚きの中にアルミホイルに包んだお芋などをいれ、マシュマロを炙ったことがあった。
 ザッザと落ち葉を掻き集める竹箒。
 長い柄のついた四角い金属のちりとりを置く音。
 ぱちぱちと爆ぜる小枝。
 用意された小さなバケツ。
 掃いても掃いても、振り返ると道には必ず真っ赤な楓の葉っぱがポツンと1枚鎮座していた。
 いつも誰かしらが落ち葉焚きをどこかでしていた。
 
 寒いとき、あたらせてくれたおじさんがいた。
 落ち葉も紙も何でも燃やすおばさんがいた。
 秋冬。
 火はとても身近で優しくて怖かった。
 
 落ち葉焚きの間にいろんな人と話した。
 あまりの煙さに話なんてもってのほかで、咳き込み、泣きながら枝を焼べ合い、
 真っ赤な眼で苦笑しあったこともある。
 
 ダイオキシンだ何だと、落ち葉焚きが禁止されてから、
 今どのくらい経つのだろう。
 落ち葉焚きという情景が消えて何年になるのだろう。
 沢山の落ち葉が燃やされてきた時間が確かにあったのだけど、禁止され、
 結局本当にそれでCO2の排出は減ったのだろうか。
 良くなったのだろうか。
 
 環境のため、処分施設があり、不完全燃焼させないために高温で焼かれる。
 高温で焼くためのエネルギーを作るためのエネルギーはどこから来ているのだろうか。
 原子力だろうか、火力だろうか。
 CO2を排出させないというのが主眼なら原子力かもしれないが、他のものならば、
 高温で処分するためのエネルギーを作るためにきっと多くのCO2が排出される。
 原子力だって、周知の通り、副産物に大きな心配がある。
 
 ただ単にダイオキシンの発生量がどうのという問題だけでなく、
 落ち葉焚きという自然発生的なコミュニティーをなくしたことで、
 環境のことを考えた法が、環境問題を身近なものでなく机上のものへと
 変質させてしまったように思うときがある。

 落ち葉が降り、それが炭となり、土となるまでをしらず、
 落ち葉の果てが白いゴミ袋にぎゅうぎゅうに詰まった姿だと思うのならば、
 最後の処分を他人に預けてしまうなら、その落ち葉の行く末はその人にとって他人事
 となってしまうのではないか。

 環境、自然のサイクルが身近に感じられないということは、
 環境についてを生活の中で考え行動するという芽を奪ったということかもしれないと私は思う。