少年法改正について②欠如した視点


子供は幾つになったら責任能力を持てるのだろう。
 人を形作っていくのは一体なんだろうか。

 環境だろうか、資質だろうか。
 全てで、そして、それ以上だろうか。

 私が現在目を通しているメディアは、少年法改正案について、
 年齢を下げれば良いわけではないとか、低年齢者のそれからの生活はどうなるのか、
 とか、そんなことばかり取り上げるものが多い。
 
 けれど、ちょっと待って欲しい。
 そうした低年齢犯罪者のこれからへの視点は大切だと思うけれど
 そこばかりに焦点を絞った報道が多いのはおかしいのではないでしょうか。
 
 ある程度自分で知識を得て、行動するようになったら、
 責任は本人に移行してゆくのだと思います。
 けれど、行動半径や環境、お金を自分で稼ぐことも出来ないような年齢の人に、
 自分の犯した犯罪の責任全てがあるというのはおかしな話ではないでしょうか。
 
 親は子供に対する教育や扶養義務があります。
 教育の義務は、ただ学校という名前の所へ連れて行くことにとどまらないのでしょうし、
 扶養はただ生かしておくということではないでしょう。
 
 現行の14という対象年齢もまだ義務教育中の年齢。
 今度範囲内に入るだろう11という年齢は小学校高学年。

 犯したことへの処罰はしなくてはいけないと思います。
 けれど、その責任を背負うのは子供だけではないように思います。
 
 少なくとも、小学生の子供に対して
 「そんな事をするとは思わなかった」と親は嘆く権利は無いと私は思います。
 この時代、仕事をしている人も多いでしょう。
 子供に対して世話しきれないような忙しさ、辛さもあるでしょう。
 それでもやはり、子の責任は親にあるのだと思います。
 
 「バカチョンカメラ」という言葉があります。
 これはインスタントカメラのことですが、
 「馬鹿」でも「チョン(朝鮮人)」でも扱えるカメラというとても侮蔑的な差別用語
 この言葉を知るまで、
 私はそんな風に朝鮮の方を差別する言葉を知りませんでした。
 言葉を知らなければ、当然その言葉の後ろにある侮蔑的な思いもわかりません。
 
 私は、
 ある程度の年齢になるまでその言葉を知らなかったお陰で、
 先入観なく韓国人の友人に接することが出来たのだと思うし、
 ある程度の年齢になって知ったお陰で、
 そのことについて考えて行動することが出来たのだと思います。
 ですから、この言葉を使わなかった両親や周りの方に本当に感謝です。

 人が成長し、行動してゆく過程は、
 まず沢山の情報を得て、考え、自分の前にある選択肢から選んで
 行動するということの繰り返し。

 幼ければ幼いほど、行動するために必要な知識の積み立てが大切になる。 
 子供が欲しがる情報を与えていくというのは勿論、
 どんな情報を子供に与えていくかということを考えて行動することも親の義務じゃないかと思う。
 
 確かに、小学校にも沢山の子供たちがいて、今はパソコンもある。
 そこからくる情報の統制までは出来ないかもしれない。
 けれど、所詮人は、
 知らないことは出来ないのだと私は思う。
 
 カッターナイフを人にも向けられること。
 人がナイフで殺せること。
 例えばの話、
 人をけなせる言葉も、知らなければ「嫌い」の一言以上は言えないだろう。
 
 何のために何をどう使うのか。
 情報を統制されてばかりでは子供の成長は阻害されると思うけれど、
 それなりに子供が受けるべき情報は年齢と資質で考えられるべきだと思う。
 
 そして、少年法の対象者を低年齢化させるのならば、
 低年齢者の犯罪に対しては、
 少年だけでなく親にも罰を与えるものでなくてはならないと私は思います。
 
 先月だったか。
 小学6年生の男の子が、同じ小学生を強姦する事件が起きた。
 
 その小学生の供述によれば
 大人の見ていたビデオを見て、自分にもできるかどうかと考えたそうだ。
 
 被害者は、被害者の親御さんはどれほどの思いか。
 私はそれを小学生に見せた大人は、厳罰に処すべきだと思う。
 
 彼の犯した犯罪は最低なものだが、
 少なくとも、小学校6年生の少年の行動のその全てが、
 彼自身の責任だとは思えない。

 加害者の親は何もしていないと言うかもしれない。
 けれど、少なくとも義務教育中の子供の行為に親が無関係であるというのは、論外。
 そうした選択肢情報を彼に与えてきたということ、それ自体が処罰されるべきことなのだと
 私は思います。

 責任の全てを親にかぶせるなという人もいるかもしれません。
 今の時代、ネット、テレビ、新聞、どこからも陰惨な事件の話は飛び込んできます。
 全てが親の責任とは言いがたいとは思います。

 けれども、子供が小さなうちは少なくとも
 どんな情報を欲し、どんな行動を選んでいるのか。
 どんな情報を与えられるのか。
 それを考えて行動することが親の義務であり、責任で、
 行動にきちんと責任をもてないのではないかという年齢の子供が犯した犯罪については、
 親はそれに対して同罪以上の罰を受けなくてはならないのではないか。
 と、私は考えます。

 だから、今回の改正。
 私だったら下限の年齢は失くし、低年齢者は親とセットにして罰し、
 ある程度以上の年齢の子供は従来通りに「まだ未来ある個人」
 「更正する可能性の大きいもの」として罰していく二重構造にすることを考えます。
 他の方だったらどう思うのでしょうか。
 
 親の責任という所になると、メディアはただ「責任」「何故」と繰り返していますが、
 そろそろもっと踏み込んだ報道が必要とされているのではないかと
 私には思われてなりません。
 
 各紙新聞によれば、今回の法改正で対象となった中で低年齢の子供たちは、
 少年院内で私服着用が認められたり、父親役・母親役が付き、
 自立支援施設のように擬似家族を作るのだそう。
 
 犯罪を犯した子供の中には、少年院外に家族のいない子も家族のいる子供もいるだろうし、
 家庭内が円満であっても淋しかったりすることもあるかもしれない。
 確かに低年齢者にとって家族という環境は大切だろう。
 
 けれど、
 その親は子供の犯したことに責任も取らずに外でただ待つのだろうか。
 子供の育った環境はそのままで。
 
 ある程度以上の年齢ならそこまでの責任は親にないかもしれない。
 子供独自のコミュニティーや情報源もあるだろう。
 しかし、犯罪を犯したのが小学生だとしたら?

 犯した犯罪の責任を負うべきなのは子供だけなのでしょうか。