春と香りと

 風が、甘い。
 まだ薄手のマフラーが必要なほどの寒さの中、強い風が吹いている。
 服の隙間から寒さが入り込んで来ないように上着のチャックを上げた。
 感じる空気や風は明らかにまだ寒いのに、
 口に含んだ空気さえ甘いと味で感じられるほど。

 少し前まで風に感じる程度だった沈丁花の香りが、時機到来とばかりにそこここで咲き、
 強い風がどこからその香りを運んできたかわからないほどの甘さで空気を埋め尽くす。
 空気そのものから香りが零れ落ちてくるように。

 寒さに強張り、震え、ぎゅっと持ち上げられていた肩が、
 優しい香りにほぐされてホッと息をつく。
 寒いと感じる時に強張り、震えるのは、
 筋肉を緊張させ、小刻みに動かすことで自分自身を温めようという働きなのに、
 安らぐ香りに勝手に弛緩させられてしまう。
 体が勝手に今は暖かい季節なのだと錯覚しているようなのだ。
 
 アロマテラピーなどでリラックスすることがここ数年来持て囃されているけれど、
 そうしてリラックスすることが出来ることが、
 「自然の中に生きる動物の本能の一側面なのではないか」と、ふと思った。

 地球には季節がある。
 年中暑くて雨季があるだけというところから、短い夏を迎えるのみの極寒の地や、
 日本のように4つの側面を見せるところなど形は様々。
 
 そんな中、暑いだけの場所はともかく、冬のある場所に住むものにとって、 
 「冬がある」ということは基本的に大変なことなのだろうと思う。
 寒ければ植物も痩せ、枯れる。
 川が凍ってしまえば水も飲めない。
 
 日本に住む熊をはじめ、冬眠する動物は多々いるけれど、
 きっと本当は冬眠なんてしたくないのではないかと思う。
 冬の魚は脂が乗っていて美味しいけれど、
 魚だって仕方なくそうしているだけで、寒さに耐えたいわけではないはず。
 しなくてすむならばそれに越したことは無い。
 けれど状況に沿わなければ生きていけないからみんな諦めて動かず、
 仮死に近くなったりしながらどうにか適応している。
 
 そんな中で迎える春はそれこそ新しく自分が生まれ変わる季節に思えるのじゃないかと思う。
 水は冷めるのが遅いけれど、温まるのも遅い。
 
 春が来た時、水が温まればそれは確かに春が来ている時。
 けれど陸では、三寒四温
 寒くなり、暖かくなり、水中よりもはっきりとした日々の違いが季節の流れを作っていく。
 温まった温度につられて外に出たらまだ冬ということも多々あるはず。
 
 きっと季節ある陸を生きる者達は、水中の生物達よりも春を感じる指標を多めに持っている。
 冬時の小春日和の暖かさにに騙されぬ様。
 暖かくなり、寒くなりの流れの中で、
 徐々に芽吹き、花開くものが確実に出てくるまでじっと待つことが出来るように。
 
 脈拍を少なくし、呼吸も減らし、極力使うエネルギーを無くし、
 自分の時間を遅くして。。。
 春を待つ。
 きっと、香りを感じることさえ、ゆっくりにして。

 ゆっくりと香りが鼻腔に流れ込み、知らない間に冬の強張りが取られ、
 香りがしっかりと感じられるまでには、
 冬を越すための眠りが穏やかな休息へと変わっているのではないかしら。

 目覚めるのが早すぎれば、食べるものもない。
 香りは温度以上に陸に生きる生き物にとって重要な春を知る指標なのではないかと、
 花の気配に自分が勝手に安らいでしまうことに思う。

 そして、花の香りがこんなにも楽しく、やすらいでしまうのは、
 その匂いがある時、「食べる」という本能を満たすことができる季節だと、
 遠い昔の記憶で知っているからかもしれない。
 と、そんなことも思った。

 去年の暮れ、遭難をした男性が冬眠状態で見つかった。
 水も食料もほとんど取らずに20日以上。
 身体的な後遺症は特別無かったという。

 その事実に、同じ日本人であったことに驚く以上に、
 もしかしたら歴史の無いほどの昔。
 人間も冬眠せざるを得なかった地域か時があったのではないかと、感じた。

 地球上に何十億もいる私達は、自分のことも他人の事も知ろうとして、
 医学や宗教や哲学、文学。
 様々な形で今地球上に存在している以上の考えを蓄積している。

 それなのに、未だ自分達にどれだけの事ができて、何が限界なのか。
 わかっていない。

 昔どこかで、「機械の仕組みを知らなくても機械を動かすことは出来る」と聞いた。
 私達人もきっとそんなものなのだろう。
 
 思考をあちこちに飛ばし、仮説ばかりのことを考えても、
 沈丁花の香りが心地よいことにはなんの変わりも無い。
 
 見上げると少し朧気な月が、薄い雲の向こうから丸く光っていた。