東京国立博物館にて2007.2

少しばかり冬の小春日和を思わせる気候にホッと一息。
 冷たい空気のなかで、穏やかな黄金色の陽だまりを見つけると
 何か大切なものが戻ってきたようでとても嬉しい。



 寒い空気の中でなら、狂い咲きの桜も梅もツツジ
 その見かけだけを楽しむことが出来る。
 人間、いやいや、私なんて現金なものだと花々の寄せる甘い香りを存分に楽しむ。



 先日、知り合いの方がチケットを下さったので上野の東京国立博物館の特別展
 「悠久の美―中国国家博物館名品展 」に行った。
 上野公園の池のほとりの寒緋桜がときめくような色合いの濃いピンクの花弁を
 幾つも幾つも下に向けて楚々と咲いていた。
 
 そして、その桜の下に、その特別展の割引券を売るダフ屋。
 さらにはチケットが余ったからいらないかと仰る老婦人。
 
 チケットが余ったからというのは以前にも言われたことがあるものの、
 ダフ屋を見たのは初めて。
 
 自分としては元々興味があった展示だけに、
 よほどチケットを配ったか人気がないのかと不安になる。
 
 中国の展示自体は正直心惹かれるものもあったけれど、思った以上に展示品は少ない。
 確かにいい物もあるのだけれど、普段の特別展示よりも小規模な様子。



 同時特別展示の「マーオリ楽園の神々」の方が私には面白く感じられた。
 
 軟玉と呼ばれる緑の石を使った細工の数々。
 原石に触れれば温もりさえ感じられるようで、ヒタリと吸い付いてくるような気がする。
 彼らはどんな時にその石を見つけ、それで細工をしたいと思ったのか。
 今は絶滅してしまった鳥の羽で、細やかに織られたマントの数々。
 カヌーの舳先、家の隅々に丹念に彫りこまれた彫刻。



 大切な宝物の鳥の羽をしまう蛹(さなぎ)や楕円の形をした宝箱。
 裏から表、目に付くところには全て彫り物があり、
 宝物を大切に大切にと思う気持ちが彫る線に変化していくようで、
 羽を覗くより先に箱の表の線に目が惹きつけられていく。
 
 写真やマスクとして残る肌に入れられた入れ墨も、痛みを思えば怖くて仕方がない。
 男性も女性も顔にしっかりと溝を刻んでいる姿が残っている。
 痛みを考えなければ、後から刻まれたものだというのに不思議と綺麗だ。
 
 顔を含めた頭はとても神聖なもので、まず触ることさえ許されないという彼らの首長の一人の
 顔型がある。
 ライフマスクとあるそれは、ぎょっとするほど人の顔そのままでとても怖い。
 けれど、筋肉の流れに沿うように。
 全体のバランスが壊れないようにと単純な線が幾つも幾つも刻まれている姿は、
 宝箱と同じく、とても大切で替えがたいものなのだとお互い思っていた証のようにも思えた。



 その時々の人の息遣いや想いが伝わってくるような展示の重み。
 中国国家博物館の作品群の中にも、丸みと点の不思議なバランスのもの。
 刻み損ねの跡生々しい器。
 引かれるものは幾つもあった。



 けれど後半は、兵馬俑など、お墓からの出土品も多く、ジワジワとなんともいえない気持ちになった。
 死後に生きるためではなく、死後には死んだものを付けるとでもいうような人形たちの一点だけを
 見据える眼差しに私はあまり心惹かれるものを持たなかった。



 中国の金彩の施された犀、肉を煮るための器、楽器・・・・
 マオリの品々。
 私はやはり生きる為の人々の為に作られた品が好きだ。
 どんなことを思い、どんなことを考えていたのか、どんな風に使われていたのか、どんな重み、
 音がするのか・・・。
 
 美術館からの帰り、ふと、
 今では羽しか残っていない鳥の声はどんな声だったのかと思う。
 飛べない美しい鳥だったという。
 やはり日本朱鷺のように人が絶滅に追いやってしまったのだろうか。