ラスベガスにて

 長崎にハウステンボスがあるように、
 ラスベガスには様々な国の雰囲気を模したりイメージした施設がある。
 ピラミッドを模したルクソール、ローマ時代を思うシーザーズパレス、
 水の都のベネチアン、玉ねぎ屋根のアラジン・・・・
  
 ラスベガスはショーやカジノだけの場所ではなく、
 そうした場所を模したホテルやショッピング街の宝庫。
 そして、意外にもアメリカでも最も治安の良い方の街のひとつ。
 (裏通りや寂しいところに行かなければ・・・)



 「私はもう、そんなに旅行には行けないし・・・海外なんてとってもとっても・・」
 「あと1回かしら・・・」
 そんなことを言っていた祖母が、両親からラスベガス事情を聞いて喜んだ。
 「1度に沢山の国が見られるの?」
 それならば、と、祖母は大いに奮い立ち、ラスベガスへの旅行を決めた。
 ダメダメ通訳兼コンパニオンが私の役目。



 両親は昼にゴルフをし、私と祖母はテッテケテッテケとホテルやショッピングモールを梯子する。
 ラスベガスのホテルは大きい。
 ホテルの廊下から端を望むと、50m以上の距離があるような・・・。
 1つのホテルから隣のホテルへ。
 190cmの人とも普通に歩けると歩くのが早いことに定評がある私でも、
 隣のホテルに着くまで優に10分。
 80の祖母同伴ならばそこは当然20分に近くなる。
 
 ホテルからホテルへと
 歩くばかりは芸もないので、タクシーで行ってはショッピングモールを探す。
 1日に、訪うホテルは約3つ。
 面白いものでホテルの1階は必ずカジノ。
 禁煙大国アメリカには珍しいほどの喫煙者で溢れている。



 ショッピングモールはそのカジノを分断するようにあったり、通らないと入り口にいけなかったり。
 基本的にラスベガスではカジノを通らないとショッピングは出来ない。
 空港の搭乗口にスロットマシーンが置いてあって驚かさせられたのと同様に、
 こんなところは「さすが、ラスベガス」と思わせられる。
 
 カジノなど、どこも同じと思いきや、ホテルごとに客層の違いはかなり露骨で、
 良いホテルでは燕尾服。ほどほどではラフな格好の人が目に付く。
 カジノの従業員たちも、制服にアイロンがあたっていたり皺がめだったり。
 昼と夜では女性のヒールの高さが違ったり。



 祖母はカジノを横目で見つつ、敷いてある絨毯の模様の緻密さに客層がわかると喝破。
 やはり、人によって見る部分が違う所が面白い。



 ショーは「O」とデービット・コパーフィールドのマジックショー、「ミスティア」へ。
 
 正直なところ、デービット・コパーフィールドは・・・エミー賞の授賞式でどうの。
 と、華やかな自慢話と、彼自身のナルシスティックな話がショーの半分を占める。
 正直、ハリウッドからラスベガスへと言われても、時間にお金を払って自慢話を聞かされているようで
 がっくり。
 祖母は頑張ってトークを通訳していた私の苦労もそこそこに熟睡。
 実に正しい姿に思えた。



 「O」と「ミスティア」は、共にシルク・ドゥ・ソレイユの出し物。
 音楽も歌も、全て舞台上の動きを見ながらの生演奏だ。



 「O」はシルク・ドゥ・ソレイユ最新の「ビートルズ LOVE」の一つ前の作品で、
 とても人気が高い。
 
 玩具箱の中を覗いたように色彩と動きに満ちた舞台の上では
 必ずどこかで何かが同時進行で動いていて、目が回る。
 右で動いているものを見ていると左で動くものが見切れない。
 大きく俯瞰してみようとすると、集中して見ないと見られないような凄まじい動きを見逃す。
 これは確かに凄いショーなのだろうけれど、
 あまりにもあちこちで同時進行で事が運ぶので、観ていると自分の頭の処理速度が試されているような
 そんな気にもなる。
 
 ダンサーたちの動き。
 水中を行く世界でもトップレベルの競技者達だった人達の魅せる動きに心は動く。
 けれど・・・
 「凄いもの」と思うものの、残念なことに凄すぎる舞台装置の不思議に目が行ってしまった。
 とても面白いショーなのだけれど・・・・・
 舞台上に突然水が満ち、干き、動く。
 その不可思議な水の動きに意識は吸い寄せられ、私の中で舞台の方が大きな印象に残ってしまった。
 
 演技も舞台もそれぞれは本当に凄いのだけれど、
 バランスとしたら舞台の方が演技に勝ってしまったのでは・・・。
 そんな気がする。



 その為、観た中で、これが良かった!というのは「ミスティア」だ。
 人間が見切れる範囲で人が動き、止まり、走り、遊ぶ。
 和太鼓で始まる最初もそうだが、「人の動き」「生きているものの動き」が、
 「O」よりも素朴な形でショーとして提供されている。
 ストーリーがあるのも勿論だけれど、
 それぞれが非常に生々しいというか。。。そう、いい意味でアナログな雰囲気が残るのだ。
 
 舞台に掛けたお金は、「O]よりも少ないかもしれないけれど、
 私は「O]よりも「ミスティア」をまた観たいと思う。
 2度でも、3度でも、音楽、動き、バランス、ユーモア。
 
 これからラスベガスへ行き、ショーへ行きたいと思っている方がいたならば、
 散文的で処理速度を競うようなデジタル的な「O」よりも、私は断然「ミスティア」を推す。
 
 ミスティアの方が、ショーの内容として危険度が高いのではないか?「危ない!」と、
 観客が手に汗を握るようなサーカス的興奮があるように思う。
 「O」の場合、同じような行為があってもそれはすでに同じ人間の行為への「凄い!」という
 感嘆や不安を芸術のような形で昇華させてしまっており、
 観客の中にそれが「危険な行為」であると言ったことを思い出させないレベルに行ってしまっている。
 
 それはそれで非常に凄いことなのだけれど、「ショー」を楽しむ為には感情移入が大切な要素の
 ひとつになるのではないか。
 そういう意味で、凄いが故に観客に行為の危険を感じさせないレベルになってしまっている「O」は、
 満足度はあるものの、 「ミスティア」と比べるとリピーターが少ないのではないか。
 と、私はこっそり思ってしまった。