凧揚げ

梢の間から、空を見上げる。
 桜の枝に落ちるべき葉はもうなくて、空が静かなエネルギーを秘めた額縁に納まっている。
 風が吹く度にこすれあって枯れ葉がしゃわしゃわと地面で音をたてる。
 枯れ葉に囲まれた原っぱももう赤茶けて、草株の白く枯れたのだけが、
 赤土の原に水溜まりのように点々と露出した地面に冬前の面影を残している。
 原っぱの向こうに柴犬を連れた自転車が見えた。



 正月になると、原っぱに子供達がやってくる。
 普段はゲームに夢中な子供達が、家族に連れられて凧揚げにやってくる。
 原っぱに1年で1番子供がやってくるのは正月かもしれない。
 正月が終わると、例年、ボロボロになった凧が電線や木に引っ掛かっているのを見かける。
 それが誰かの笑顔の残り香のようで、淋しげな姿の中にも心の中でちょっと暖かな何かを感じる。
 来年は幾つの凧が枝の上で揺れることになるのだろう。



 樹上で揺れる凧を見るたび、少し後ろめたい気分に襲われる。
 理由の1つは、揺れる凧達はどれもビニール製で決して土に還ることが無いから。
 もうひとつは私も昔そうして樹上に凧を置き去りにしたことがあるから・・・。



 私が小学校に上がったか上がらないかの頃の正月。
 父が「凧揚げに行くか」と言った。



 ファミコンもまだ一般的でなかった頃。
 凧揚げに憧れつつも、自分達の財布では到底買えなかった頃。
 
 小さな兄と私はころころと父にまとわり付くようにして外へ出た。
 外は鼻がツンツンするほど寒く、母がベージュのコートを羽織らせ、
 真っ白な兎の耳当てをしてくれた。
 兄は真っ赤なセーターで、紺のダッフルコートを着ていた。
 
 空は青く、シジュウカラやカケスの声が賑やかに響いていた。
 道にはつるつると滑る氷の水溜りがあり、きゃいきゃいと遊びながら歩き、
 転びそうになると父の腕が支えてくれた。
 笑うたびに息は白く染まり、冷たい空気が身体の中に忍び込む。
 兄の頬っぺたは真っ赤にそまっていた。



 今は無い小さな文房具屋の入り口の脇の真っ青なバケツには、
 傘立てに刺さるように凧が幾つも差し込まれていた。
 和柄、洋柄、黒いの、青いの、三角、四角。
 どうせ遊び辛いから、兄妹で1つ。



 太っ腹に「どれでもいいよ」と、父は言う。
 
 伝統的な奴さんが好いと私が言う。
 三角が、格好好いと兄が言う。
 青が良いと私。
 黒が良いと兄。
 結論は一つ。
 
 結局、互いの小さな頭をうんうんうんと悩ませて、青い三角の凧にする。
 「良いのを選んだな」っと父が言い、私と兄は得意気に顔を見合す。
 目が合うと兄はニッと笑った。



 原っぱへ行くと、もう何人も凧揚げをしている人がいた。
 四角も、三角も、連なったものも、みんな空を飛んでいる。
 「早く」「早く」と気は焦るけれど、凧はすぐに準備が出来ない。
 父と兄に組み立ては邪魔だと追いやられ、霜柱が融けてぬかるんだ原っぱを歩き回る。
 「ふんだ」、「なにさ」と腹立ち紛れに歩くうち、日陰に残る霜柱を見つけた。
 ピンクと白の毛糸の手袋をはめた手で霜柱の上の土を持ち上げると、
 5cm以上はある立派な霜柱がごっそりと取れた。
 
 「なんて綺麗なんだろう」と、指先で突っつくと固い。
 グッと押すともろっと崩れる。
 光の加減で、氷の柱が虹色の光を閉じ込めながら透明に輝く。
 顔を近づけると、濃い土の匂いがした。
 もっと見たくて霜柱の塊を日向へ持っていくと、
 キラキラと光って溶けて手袋を濡らし、大慌てでそれを捨てると、
 ドスンと音を立てて地面に落ちて透明な欠片が散らばった。
 
 可愛らしい手袋はどろどろのビショビショで、濡れた手がビリビリと寒さに痺れた。
 落とした塊を、ザクザクと踏み崩し楽しんでいると、父の呼ぶ声がした。
 振り向くと兄が、凧を父に持たせ、走り出そうとしていた。



 風は凪、兄の凧は何度も飛び上がりたそうにしては地面の上を転げる。
 1回、2回、3回・・・と、風が吹いた。
 凧がぐうッと空に駆け上がり、他の凧達の仲間入りをした。
 兄の手の糸はどんどん空へと巻き上がり、
 青空よりも青い凧が空を行く。



 「持たせてよ」「駄目」「持たせてよ」「駄目」
 兄の目は真っ青な凧を追い、私の手は羨ましさに兄の手元を狙う。
 ・・・・が、体力差はどうにもならず、凧を手にすることは出来ない。
 兄の凧は兄が走ったり、糸を短くしたり長くしたりする度に、上へ下へと風の中を泳いでいく。
 
 と、兄が糸を持たせてくれる。
 凧は私の手にもたれた瞬間、ぐいぐいと勢いを増したように地上の糸で私の手を締め付ける。
 痛い痛いと思いながらもそおっと糸を伸ばそうとすると、失速。
 凧が空から落ちてくる。
 走ったものの、追いつかなくて凧は墜落。
 
 兄は意気揚々と「落ちたから交代だ」と私に告げる。
 父は私達をに声を掛けつつ、兄妹の交代劇を笑って見守る。



 そんな交代劇が何度か続いた頃、
 強い風が吹いた。
 兄の持っていた糸が凧と兄との引き合いに負けパツンと切れた。
 
 凧は空をぐんぐんと駆け上り、遠くへ遠くへと飛んでいく。
 原っぱを兄と私は追った。
 凧は原っぱの柵を越え、原っぱを囲む木立辺りで失速し、
 私達の足では間に合わないほどの早さでクルクルと回りながら落ちていき、
 桜の枝に糸を絡め、枝先に引っ掛かってしまった。



 下から見ても大きな穴が開き、私達の真っ青な凧は枝先でぐったりとしている。
 登って取りたくても、先過ぎて登れない。
 身長が3m、4mとあるわけも無いので父にも取れない。
 小さな2人でぐいぐいと桜の幹を揺すったものの、大切な凧は戻ってこない。



 夕暮れが近づき、父は悔し泣きする兄妹を連れ、家に帰った。
 大切なものは失くしたら終わり。大切にするようにと言いながら。
 
 それから、約半年ほどは通るたびに私達の凧が枝で揺れているのが見られた。
 気がつけばあの日から凧揚げというものをしていない。