だから、人を殺してはいけない

ニュースを見ていると
 友人を殺してしまったのではないか?と言われていた容疑者の少年の遺体が発見されたと
 報道されていた。
 高等専門学校の同級生を何故?とTVも新聞も様々に取り上げている。
 少年のご両親は少年が何故そうしてしたのかと言うことすら知らぬまま
 命を落とされてしまった少女を悼み、少年が通っていた学校の校長先生に
 謝罪メールを送ったそうだ。
 
 ご自分の息子さんをなくされた思いが滲むものの、
 周囲への謝罪と、亡くなられた方への重いが詰まったメールだ。
 
 何故彼が彼女を殺してしまったのか。
 彼は何故そこで自殺を選んだのか。

 大事な娘さんを突然亡くされてしまったご両親の喪失感ややり場の無い怒りは
 私などが想像できる以上のものがあるのだと思う。
 病気や事故でのことではない。
 人と人との間で起こったことだから、
 どうにかすれば回避できたのではないかなどと思われるのではないだろうか。
 
 人が人を殺す。
 確かに連綿と続いてきたことかもしれないけれど、
 縺れ合い、絡み合ったお互いの思いをほぐすことで、
 命のやり取りになる一歩手前で踏みとどまって、
 そんな事にはならなかった過去だって、世の中に無数に散らばっている。
 
 彼はどうして彼女とのコミュニケーションの中で踏み留まれなかったのか。
 
 彼のご両親の公開されているメールを読む。
 
 彼が無残な姿で見つかっても証拠は彼が殺人を犯したと語っている。
 彼のご両親は、大切な息子さんの死に集中して悼むことはできない。
 彼が命を奪ってしまったであろう娘さんとそのご両親がいらっしゃるからだ。

 もちろん、育てた責任と言う向きもあるだろう。
 たしかに、そうした責任は無いとは言えない。
 
 けれど
 どちらの親御さんも突然に子供を失われたことは確かで、
 中心人物だった2人を亡くし
 彼らがいた周辺には被害者しか残っていない。
 
 加害者の親を被害者というのはどうかと思われる方もいるかもしれない。
 私はやはり彼らもこの突然の惨事の被害者なのだと思う。
 
 何故人を殺してはいけないか。
 
 殺したほうも、殺されたほうも
 周りに悔いる人がいるからだ。
 悲しむ人がいるからだ。

 周りには誰もいないと思う人だって、本人が知らないだけで
 すれ違う時を楽しみにしている人がいるかもしれない。
 他人にインスピレーションを与えるかもしれない。
 自分と他人の関係なんて案外分からないものだ、
 
 人は、誰かと関わらずには生きていけない。
 過ごす日が1日増える毎に、関係は広がっていく。
 
 人を殺してはいけないという説明は上手くできない。
 
 でも、殺せないというのは
 他人に自分を投影することで
 人を殺すことへのストッパーがかかるからではないかと思う。
 他人の後ろに、自分が関わってきた人達がいて、
 見それぞれの死を悼み、それによって苦しみ、悲しむ姿が見えるからでないかと思う。

 事故や病気と違い、
 殺人は加害者の気持ちしだいでなくすことができるものなのだ。
 
 だから、どんなに腹の立つことがあっても、
 相手の後ろに立つ人を見られるように
 家族でも友人でも
 自分のことなんかで悔やんで欲しくない大切な人を見つけて
 好い関係を築いていこうとするべきなのだと思う。
 
 自分がそう思えるひとがどこにいるかなんて、
 その時になってみなければ出会いなんてわからないから
 関係を広げて、深めていけば
 随分の殺人がなくなるのではないかと思う。

 もっとも、私は彼の友人関係なんて知りはしない。
 殺害に至った理由もわからない。
 だから彼がたとえどうでも踏みとどまれたかどうかはわからない。

 けれど
 娘さんを亡くされた親御さん。
 息子さんを亡くしながら息子を一番に悼むことができない親御さんが
 痛ましくてならない。

 こんな酷いことは、大切な人にしてはいけない。
 だから、人を殺してはいけない。

 誰も彼もが大切な誰かの誰かなのだから