争いはなくならないけど・・・

ぼんやりと虫の音を聞いている。
 夕方、雨が降っていったから
 ベランダの窓から流れてくる風は生き生きとした土の匂いがする。
 ふと見ると、隣家の黒い屋根瓦が白く光っている。
 ほとほとと窓辺に寄ると、
 屋根の上で満月のような月が光っていた。



 一昨日、知り合いがTVでルワンダの大量虐殺の特集がやっていたとメールをしてきた。
 そこに、
 「紛争は隣人がいる限り無くならないのかな」という一文があった。
 私は正面から答えるわけでもなく、こう書いた。
 「争いは、なくならないと思うけれど、武器を使っての争いは無くせると思いたい」
 
 人が成長する上で、大なり小なり争いが起こらないわけは無い。
 人と人とは決して同じものではないから、
 「なんで同じじゃないのだろう」と、悔やむこともあるだろうし
 腹が立つことも、面白くなる事だってある。
 
 みんな同じで、
 ただにこにこと同じ筋道で同じ事を考えている世の中なんて気味が悪い。
 働き蟻の中にだって、働き者も、怠け者もいるのだから、齟齬がうまれることは仕方ない。
 かといって、仕方ないから諦めることが出来るほど悟ってばかりいれるわけもない。
 争いにならない、お互いの許容範囲内の事ばかりで過ごしてゆけるほど
 世界は小さくもないようだ。
 
 本当は宗教問題であっても
 「そちらの宗教ではそうですか、うちではこうなんですよ」
 「へ〜うちではこうですよ。面白いですね〜」
 と、こんな感じでいければ本当は良いのだけれど。
 「うちではこうなのに、そちらはおかしい!間違っている!」とか、
 「間違っているものをそのままにしておくのは許されない!」と、
 こんな感じになっているのだから仕方ない。
 
 それぞれの考え方は考え方で、動ければいいのだけれど
 それぞれの強く信ずるもの。
 生活より、命よりも、その宗教が大切だという人がいたりする。



 その宗教が、祖先であったり、お金であったり、権力であったり、理想であったり・・・
 人によって譲り合えぬものがあったりするのは確かだ。



 口で行う争いで決着が済めば良いけれど、
 決着というのがつかない問題もある。
 本当は当事者同士で「ここを決着にするのだ」というものが出せればよいのに
 それがまったく出来ずに泥沼の歴史を重ねてきてしまうことも多い。



 当事者同士で済ませればいいものを、
 事をいじくりまわして事態を悪化させたり、
 当事者の中に無かった差別意識を煽る人がいる。
 当事者には必要もない争いを、無理やり押し付けるものもいる。



 争いは人がいる限りなくならないけど、
 きっと当事者は不必要な争いまでは求めていない。
 どんな理由があっても
 人が不条理に死ぬのはやっぱり嫌だ。



 宗教という「過去」と証拠が絡んでくるものではなかなか難しいと思うけど、
 様々な集団同士争うのだというのなら、
 いっそお互い素手の、1対1の喧嘩で終わらせて欲しい。
 
 月の光がどんな国にも人にも等しく照らされるのと同じように、
 せめて「これは本当に飛び道具も必要なほどの争いなのか?」という疑問を
 どこの誰もが自問できる。
 そんな風に世界が動いていけばいい。
 
 たった今も、不条理に亡くなっている人がいる。
 その人がもし亡くならなかったら、
 何十年後かに会っていたかもしれないし、
 世界中に違う未来が開けていた・・・かもしれない。
 
 私だって、いつ死ぬかわからない場所にいたら、きっと殺されたくない一心で武器をもつのだと思う。
 命の危険に晒されながら、守る手段を持つなとは・・・とても言えない。
 その立場に立ったら、きっと思えない。



 だからせめて、いつも誰もが
 武器をたとえ手にしていても、
 「本当にこんなものが必要なのか」と自問ができるような世界がいい。
 人に武器を向けたり、向けられたりが無いようになるために・・・



 相手との信頼か安心が無ければ
 どんな道具でも凶器になりうる。
 「武器」と名の付くものでなくても、他人を害することは多い。



 でも、信頼とか安心とかで世界を編み上げるには
 どうしていけたらいいのだろう 
 何ができるだろう