一体どう見えるのだろう? 


水彩の絵の具をポトリ、ポトリと落としたように
 紫陽花の花が桃色や紫、青、緑とゆっくり染まっていく。
 雨に洗われ、深くなった緑と黒々とした木々の幹。
 
 濃い夕焼け色した鬼百合が、
 普段見る百合よりも小さくて細い柔らかな葉っぱを茎にみっしりと纏わせて
 ふわふわと人参の葉のようにそよがせている。
 昨年、母が百合根の芯を植えたらどうなるかしらと植えたものだ。
 鬼百合は、どうしてここにいるのかなんて些細なことだわと言うように
 気持ちよさそうに雨を浴びている。
 
 秋になったら、冬になったらと
 虎視眈々と彼女の足元を見つめる食いしん坊の視線も知らず。
 雨に掘り返されて、土の匂いが爽やかに甘く辺りへ漂う。
 小さないもりが何かに驚いたように植木鉢の下へと消えた。
 
 しばらく、名古屋へ行っていた。
 名古屋の駅にはどんと大きな高島屋があって、
 ホームからそちらを見ると、沢山の電車の電線に切られた姿は
 まるっきり新宿の高島屋を見ているようで
 「自分は名古屋にいると思っているけれど、本当はまだ新宿にいるのじゃないか」と
 自分を疑う気持ちに苛まされた。



 どこに行っても同じ建物があるのは、安心感をもたらすかもしれないけれど
 孫悟空がお釈迦様の手のひらから抜け出せなかったみたいに
 どこに行っても同じ世界しかないのじゃないかと軽いめまいに襲われる。
 それぞれの場所が、それぞれ固有の意味と価値を持たなくなったら
 人が何処かへ行く意味はなくなってしまうのではないかしら。



 本屋へ行ってうろうろすると
 雑誌も本もやはりほとんど東京と同じ。
 名古屋の人が東京の特集を読んだって、果たしてそんなに面白いものなのかしら。
 ページをめくると、私の地元の店の紹介が載っていた。



 がらんと広い新幹線。
 乗った車両の乗車人員はおそらく僅か5〜6人。
 これだけの人数をこれだけのスピードで送るのに
 どれだけのエネルギーが費やされているのだろう。
 スピードも、便利さも大切だけど、
 閑散とした車両の中で電気の無駄遣いというのが頭で瞬く。
 人数が少ないならば、
 いっそ車両ごといくつも取っ払ってしまえれば無駄がないのに
 と思う私は過激だろうか。



 東京へ戻る車窓から
 ずっと外を見ていた。
 キラキラと明るい電飾が煌く名古屋、柔らかな光が瞬く浜松、
 名古屋より柔らかだけど明かりの範囲が広い静岡。
 名も知らぬ駅を通り過ぎ、
 様々な人の生活を示す灯りが
 田んぼや畑、道の向こうや街の中に灯っている。
 ネオンの少ない街の辺りの暗がりが、新幹線からは見えない団欒の証のようにも見えて
 一人で外を覗く自分は少し羨ましくなる。
 
 うとうととしながら、ぼんやりと外を眺める。
 自分の影が窓に映る。
 通路を挟んだ向こう側の席の人が気持ちよさそうに眠っているのが見える。



 時々、轟っと音を立てて目の前を逆方向の新幹線が通過する。
 向こう側の車窓とこちらの車窓はどちらも早く動きすぎていて
 車窓の辺りはただ白い太い線が通ったようにしか思えない。
 とても早いシャッター速度のカメラを持って向こうを撮ったら
 向こうの車窓の人が写るのだろうか。



 東京へ戻ると雨が降っていた。
 この季節の雨は白い筋のようにしとしとと降る。
 青葉の先の水滴に周りの風景が写りこんでいるように、
 この雨の一粒一粒までも周りの情景が写りこんでいるのだろうか。
 雨粒が落ちるのが目で追いきれないほど早いから、
 写りこんだ映像がすれ違った車窓みたいに白い線に見えるのだろうか。



 雨の降りだす辺りを仰ぎ見て
 全ての雨粒に映像が写りこんでいるのを想像してみた。
 何百もの自分が見えるかもしれない。
 周りの雨粒、青空、車、道路の花が写っているかもしれない。
 素晴らしい解像度とシャッター速度のカメラと、
 それを拡大して眺めるスクリーンがあったなら
その光景を見ることができるんだろうか。
 
 家へ帰る時の電車の中から
 枇杷の実の橙色が幾つも幾つも浮かんで見えた。
 楕円を少し尖らせたような葉っぱの影が街灯に照らされて黒々見えた。
 
 枇杷の上品な甘さとつるつるとした丸い大きな種の記憶がふっと浮かんで消えた。