三信ビルに行こうかな 

 一転、寒い日ばかりが続く。
 曇り空の中、木々の緑だけが深く鮮やか。



 例年はいつ頃から梅雨だったかな。
 しばらく前に雨が続いた時があったけれど、確か九州が入梅しただけで
 こちらにはなかなか梅雨が来ない。
 
 風が吹くと、頭上で葉がざわざわと騒ぐようにぶつかる。
 初夏の軽やかな音から、たっぷりと水を含んだ葉の厚みのある音になってきた。
 川から、夏の匂いがする。
 少し湿り気を帯びた空気に触れると、肌寒い乾燥した空気の中で暖かに感じる。



 「大好きな三信ビルに行ってこようか・・・」と、ふと思う。
 三信ビルというのは、日比谷の宝塚劇場のすぐ先にある素晴らしく素敵な所だ。
 
 外観は今ではほとんど見られなくなったようなどちらかと言えば地味かも知れないけれど、
 中に入ると、ぐんと吹き抜けになったアーケードやふっくらとしたエレベーターホール。
 細かな装飾や飾り。
 ビルを包むゆったりとして穏やかな空気。
 太い柱と、それぞれに休んでいる鳥の像。
 そのビルがそのまま、博物館か美術館のようで行く度に嬉しい溜息がでる。
 小さな頃からお気に入りの場所だ。
 
 今は三井不動産の持ち物で、老朽化という理由でいつかは解体されることが決まっている。
 この間行ったら、表にはもうニューワールドサービスと本屋の看板しか出ていなかった。
 立ち退きが厳しいようだ。
 先日、初めてニューワールドサービスにはいった。
 GHQの時代からある喫茶店は、
 真っ白な髪をきちっと纏めたおじいさんが、
 アメリカ訛りの日本語で卵の調理法を聞いてくる。



 スクランブルエッグ?オムレツ?ゆで卵?
 トーストと紅茶とセットで500円か、600円。
 紅茶は最近の渋いか薄いか不味いのものではなくて、ちゃんと旨みが出ていてとても美味しい。
 熱々のスクランブルエッグを口に運ぶと、
 バターの味が口一杯に広がって「古き良きアメリカ」を思い出す。



 ウェイターのおじいさんがゆっくりと歩む。
 店内は穏やかな黄昏色のシャンデリアが揺らめいて
 時間が今を細やかな織物に仕立て上げてゆく。
 外からは広く見えない店内は、実は案外大きくて、
 入れ替わり立ち代りお客は店の扉をくぐる。



 古い歴史のあるお店だけれど、ここは過去のお店ではない。
 なくなって欲しくない。
 でも、不安。
 そんな気持ちで訊ねると
 「いつかはなくなる。でも、私達は立ち退かないですからね」と返ってきた。
 日比谷の一等地。
 立ち退きの圧力も凄まじいものだと思うのに・・・。



 数百円のお金を払って、「美味しかった」と心を込める。
 無関係な人間が言えない「頑張って欲しい」の気持ちも込めて。
 素敵なウェイターのおじいちゃまがニコリと笑った。
 
 やっぱり今日。
 行けなければ明日。
 三信ビルに行こうかな。