挨拶言葉の行き先

最近行きつけの本屋は、
 細い入り口の天井に
 何枚もガラスが重ねられたような屋根が付いている。
 夜になると、白い電球がいくつもそれを照らして
 小さな月がガラス越しの空に幾つも浮かんでいるような気がする。
 
 ばさばさと葉が擦れ合う音がして上を仰ぐと
 花見を楽しませてもらった樹の枝を
 緑の葉がびっしりと覆っている。
 日に日に緑が濃くなっている。

 そろそろ挨拶の言葉に「風渡る」という言葉を使う人が出てくる季節。
 沢山の木々の梢を揺らし、
 葉と葉を擦り合わせて、風が通る。
 後ろを音が追いかける。
 緑の上を風の道が出来ていく。
 そんな季節がもうすぐだ。
 
 ふと、
 風が渡るのがわかるのは、
 枝に葉が茂るからなのだと理由がすとんと自分へ落ちる。
 
 冬の枝では風が吹いても枝同士がぶつかり合うだけ。
 秋の枝では葉が落ちる。
 春の枝では葉が擦れるほどになっていない。
 これからの季節でなければ風の渡る季節にならない。
 
 何とはなしに使っているお定まりな挨拶文も
 長い長い時を経て
 沢山の多くの方の手紙を経た後
 今のように研ぎ澄まされた形になってきたのだ。
 
 沢山の方の想いが、
 たった一つの文に凝縮されるまでには
 一体どんな思いで手紙を書いた人たちがいたのだろう。
 
 私たちが今書いているメールも手紙も
 100年後、そしてもっと多くの時が流れれば
 沢山の想いが凝縮された
 決まり言葉の文が出来てくる・・・の、かも知れない。
 
 今の私たちには
 それぞれの文も思いも別のものだと感じられても
 遠く、先の人からは
 似たパターンや傾向が見えてくるのかもしれない。

 ずうっと先のコミュニケーションの決まり言葉は一体何になるのだろう。
 それを覗いてみたいような
 なんだか恐ろしいような・・・