影の晩

 ベランダに繋がる窓を開けると
 うっすらと赤みがかった空が見えた。
 ひんやりとした風があっという間に暖かな部屋を冷やしていく。
 ベランダの小さな梅の木は
 いつの間にか咲いていない蕾を数える方が早くなっていた。
 冷えた風が雨の匂いと微かな土の香りを運んできて、
 小さなくしゃみがでた。
 
 曇る晩も、晴れている夜も、
 空が紅い薄衣をかけたように見えるのはなんでだろう。
 このところ黒い夜空、濃紺の晩を見ることがめったにない。

 子供の頃、実家が農家だという知り合いの家に
 遊びに行かせてもらったことが有る。
 満月の晩、外を歩くと街灯もないのに黒い影が出来た。
 だあれもいない夏の夜道。
 蓮根畑の大きな葉っぱがゆらゆらと水面に影を落とし、
 蛙がグー、ガー、と鳴いていた。
 月の明かりでできる影は、夜を写し取ったように真っ黒で
 呼びかけたら返事をするのじゃないかと思うほど存在感があった。
 
 道の真ん中に影がある。
 右へ行くと右へ。
 左へ行くと左へ。
 しゃがむと向こうも小さくなった。
 確かに自分の後に付いている筈なのに、
よそ見をしたら他へ行ってしまうような気がした。
 私は確かに私だけれど、私と同じに動く影は違う名前を持っているんじゃないか?
 この影に、いなくなられたらどうしよう。
 急に怖くなった。 

 ギシギシ、ジージと虫の声がした。
 コプコプと蓮根畑の水がぶつかって音を立てた。
 蛙の音は止むことがない。
 生温くて甘い水の匂いがした。

 畦道にしゃがみこむと、
 私に踏まれた草の青臭さと、
 しっかりとした土の匂いがした。

 いつのまにか汗ばんだ手を軽くジーンズで拭いて、
 月光の下ヒラヒラと動かした。
 真っ黒な影は、真っ黒な土に吸い込まれそうなほど黒く、
 小さな手の動くとおりにひらひら動いた。
 ヒラヒラ、ひらひら。
 一見同じに見えるのだけど、黒すぎる影の存在感は不思議に妖しく謎めいている。
 私から、逃げていかないかしら?
 手と影の動きが本当にそのまま動くのかしら?
 凝視しながらずっとひらひら動かしていた。
 
 帰り際、庭先にあった水盆に真っ赤な細い金魚とヒメダカ2匹。
 握りこぶしくらいの岩が沈んで、睡蓮の花の蕾がふっくらしていた。
 大人たちのいる部屋は、ふんわりと暖かな黄色い光を外に振りまいていた。
 真っ黒な影と連れ立って帰ったことは覚えているのに、
 こっそり夜中に外へ出たことを怒られた記憶があまりない。
 
 子供の小さな冒険を大人は気づいていなかったのか、
 気づいて見ずにいてくれたのか。
 怒られたのに、今ではしっかり忘れているのか。
 これがさっぱりわからない。

 夜中、街灯の真下を通るとやたらと影が濃い時がある。
 そんな時ふと
 本当に私について来てくれるのかしら
 と、子供の自分が不安を叫ぶ。

 影がどうしてできるのか、わかってはいるのだけれど・・・