変わることって、そんなに必要?

 先日、家の側の公園で一本の木がきられた。
 一抱えもある大きな切り株につけられた理由は
 
 「橋のたもとの道の真ん中にあり、交通の邪魔」
 「その周辺に川を管理する機械を置きたい事」
 「調べた結果、放っておくと何年かで倒れる可能性がある」
 とのこと。
  
 なんて勝手。
 交通の邪魔といっても、私が生まれる以前から木は何十年もそこに生えていた。
 それを、昔の方は切らないようにと道を作った。
 地元民も、面倒だって避けて通った。
 たった一歩脇にずれれば良い話。
 機械の設置も、
 1m位置が違う程度でさほど効果は変わらないはず。
 それができない筈もない。
 橋があるのは、小さな小さな小川なのだから。
 倒木の危険は
 専門知識が無いのでわからないけれど、
 数日前に切られたような切り株は
 すべすべとした健康的なピンク色がのぞく綺麗な色をしていた。
 本当に倒れる危険があったんだろうか。
 切られたものは、もう戻らない。
 
 人のすることは動かせるけど、木は動けない。
 木を切らなくてもさほど負担は増えない気がする。
 不必要な煉瓦を敷くよりも、
 その予算で木を切らずに済ませることを考えて欲しいというのは
 ・・・わがままだろうか。

 今月10日、JRのイオカードの自動改札での使用が終わる。
 昨年の3月に発売を止めてから、まだ1年も経っていない。
 スイカへ切り替えた方が、JRとしても良いのだろうけれど
 発売停止からまだ1年に満たない。
 正直、間の期間がもう少し必要なのじゃないかと思う。
 利用者が減っている中、現状を維持し続けるのではなく
 改札機を1台はもう少し残しておくとか・・・・
 (券売機・精算機は使えるけれど)全部の改札でイオカードに対応しなくなるのは
 随分アフターサービスの悪いことだと思う。
 ちょっとだけ前の物に便宜を図ってもいいのでは?
 と、思うのは私の勝手な感傷に過ぎないのかもしれない。

 世の中は
 アナログから、デジタルに変わって。
 もう随分と多くの物が、後には戻れなくなっている。
 過去のものとの互換性がどんどん失われてきている。
 「新しいもの」=「良いもの」
 ではないけれど
 「古いもの」=「良いもの」
 ではないけれど
 
 もういい加減、過去とこれからの器が同じようになっていいような気がする。
 このところ、なにか新しいものが出ると、
 安易に
 根底からシステムを変えているような風潮があると思う。
 そして、古いものは廃れ、新しいものに変わり、
 新しいものはまたより新しいものに変わる。
 でも、そんなに変わらなくちゃいけないほど不便なんだろうか。
 
 変化ばかりの世の中で
 デザインをやっている人は切なくならないかと思う。
 例えばパソコン。

 一生懸命デザインしたパソコンが、
 1年2年で捨てられてすぐに世間で見られなくなったりする。
 それをデザインする人はどう思うのだろう。
 例えば、気に入った器があって、
 そこに新製品を組み込んでもらうのが「新商品」。
 なんてものは出来ないだろうか。

 10年も、20年も持つような器で、
 「改造」ではなく
 中身だけを取り替えていくようなそんな仕組みは出来ないだろうか。
 牛乳パックのリサイクルぐらい簡単に、
 パソコンの中身が綺麗にクリーニングできればいいのに。
 そんな風に、
 古いものから新しいものへバトンタッチがなされていけばいいのに。
 
 何かを新しくしていくときに、
 古くからあるものを利用していくような仕組みが
 もっと社会に組み込まれていけばいいのにな。
 本当に新しいものでもなかったり、
 そこまでの必要性がないものにまで
 新しいものを作るたびに新しい土台を作るのは、
 なんだか妙に歪な気がする。