実り豊かにするために


 朝に、晩に、うっすらと靄がかかる。
 さらさらと細やかな雨が降る日が多くなってきた。
 今年は、一年で一番晴れやすいという体育の日も雨。
 
 秋雨は、
 夏のように強いエネルギーがあるわけじゃないけれど、
 沁み沁みと分け入ってくるところがある。
 今日の雨も
 土の中へ、アスファルトの隙間へと、いつのまにか忍び入ってしっとりとさせている。
 秋の雨は土を豊かにさせる源でもある。
 
 甘く華やかな香りのする豊かな土を、腐葉土という。

 土に染みた雨は葉を腐らす。
 雨の中、土へと変じていく落ち葉を踏みしめながら
 私は御馳走を食べるように深呼吸する。

 そして、あんまりに幸せな気持ちになるので
 腐葉土にもっとよい名前が無いかと考える。

 富葉土とか、貴腐土とか、
 もう少し土の豊かな香りを象徴するような言葉があってもいいのじゃないかな。
 何か良いネーミングはないのでしょうか?
 
 今日、
 ニュースに小学校のウサギの話がでていた。
 かなりの比率の小学校のウサギが、休みの日には餌をもらっていない。
 そんな話。

 休みは登校しないから餌をやらなかったり、
 休み前に多めに餌を飼育小屋に突っ込んでいることが多いのだとか。

 私が小学生の頃、飼育委員はとても人気があって、
 人気が無かった。

 人気があったのは、鶏やウサギにじかに触って世話が出来るから。
 人気が無かったのは、休みの餌やりをしなくてはならないことと、
 金魚でもなんでも、死んだ時などには桜の下にうずめなくてはならなかったから。
 死んでしまった生き物達は、なんだか怖くて気味が悪かった。
 
 よいほうだけ取りたくても、
 嫌なことも必ず一緒についてくるものだと誰もが知っていた。
 それが生き物を飼うということだし、
 生き物に責任を持つことだと感じていたと思う。

 だから、休み前に餌を放り込んでおけばいいとか、
 休みたいからと休むのは、そもそも論外!

 今回の話、私が一番怖く思ったのは
 餌をやらなかったり子供のことではない。
 
 それもこわいのだけど、
 それを甘んじて許している教師。
 そして子供に休みの自由を主張させる親。
 それが怖かった。

 案外、子供は責任感が強い。
 たまに忘れることは確かにあるけれど、
 子供なりに自分が決めたことへの意地って物をもっている。
 子供なりに命ってものを感じたりしている。

 だから、今回の記事のようなことが起こる理由の一つには、
 「子供のことを考える」という名目で色々左右している人がいると言うことだと思う。
 少なくとも子供に役目を振るのは大人なのだから。

 今回のような調査結果があると、子供の生命倫理が・・・と言い出す人が多い。
 でも、それってどうなんだろう?
 本当に子供ばかりが悪いのかしら?
 生命の大切さを子供に教えられる人はどれだけいるんだろう?

 私も全然わかっているほうじゃないけれど、
 休みと命は比べられないものだと思う。
 
 小学校でそんな状況になっているのでは、
 人としてウサギたちに申し訳が立たない。
 そう思う。

 自由に餌を採る自由を奪って小屋に閉じ込めているのだから、
 きちんと義務の代価は払うべきだと私は思う。
 可愛がりたいときだけ可愛がって、自分は怠るでは言語道断だ。

 今、内田百輭の「ノラや」を読んでいる。
 なんとなく居ついてしまった野良猫が、百輭先生の家猫になり
 「ノラ」と名づけられる。
 それがある日ふいといなくなって、
 いなくなったらいつの間にか胸の中に居ついてしまっていることに気付いて
 百輭先生は寝ても醒めても「ノラ」のことを思う話だ。
 
 百輭先生は、カサリと音がすれば「ノラ」だと思って慌てるし、
 「ノラ」が帰ってきた夢を見ては、ボロボロと涙を流す。
 既に文筆家として有名だっただろうに、
 新聞に探し猫の広告を出す、猫を探すためにラジオにも出る、
 謝礼金も用意するのに「ノラ」は出てこない。

 幽鬼のようにふらふらと彷徨う百輭さんの乱れる心の様が、読んでいるとよくわかる。
 私の中にも、我が家の犬が逝った時の何も手につかない時のことがありありとよみがえってきた。
 この本は、
 もう犬とか猫とかペットとかとの関係ではなくて、家族とか生き物同士の心の結びつきの話だ。

 さっき読み始めたので、まだ半分。
 「ノラ」は帰ってくるのか・・・と、
 苦しく、おたおたしながら、百輭さんと待っているところだ。
 
 なんだか
 家族の帰るのをまつ百輭さんのこの本を、
 休日に餌をやらない飼育小屋がある学校の先生に読ませたいと無性に思った。