今日もゆっくりスローライフを

・・・・月が、さやさやと光の投網を投げかけてくる。
 とらわれるのは、心か影か。
 月明かりに照らされた電信柱や隣近所の稜線が黒々と彩られ、自分を主張している。
 
 昨日の月もまるで綺麗に磨かれた鏡が浮いているような月だった。
 そういえば自分の肖像を映した鏡を空に飛ばせて、
 自分の恋する人を見つけようとする民話(?)が昔あった。
 
 あれはなんていうお話だったかな、
 確か岩波の少年少女文庫の一冊だったような気もする。
 何かの拍子に見上げた人は、なんて美しい月だという。
 鏡の少女がぽたりと落とした涙は通り雨。
 
 鏡の少女は鏡に映った影を取られ、影をさがして彷徨う。
 そんな話。
 終わりはハッピーエンドだったはず。

 そんなことを考えてばかりいると、あっという間に時間は過ぎる。
 
 なのに、パソコンの画面は変わらない。
 我が家のパソコンさんも頑張ってくれているはずなのに。
 
 ブログを始めて思った。
 「「我慢」て最近していなかったな」って。
 勿論、生きていれば色々やることもあるから、我慢は自然に生まれるものだけど、
 そういうのではなくて。

 例えば喉が渇いたというと、
 「自販機(コンビニ)がある」とか
 おなかが減った
 「お店屋さんや売店へ行こう」とか
 お財布に何かが入っていれば、ひょいひょいと選択肢ができる。
そんなこと。
 
 小学生の頃、中学生の頃は
 喉が渇いたら
 「家に急ごう」とか「学校の水道へ行こう」とか。
 おなかが減っても
 やっぱり「家に急ごう!」となっていた気がする。
 学校までの10分、15分の道のりをせっせと急ぎ足で歩いた。

 今、
 そういう我慢をしていない。
 ちょっとした欲しいものを、無理せず簡単に手に入れられることで
 「我慢」が減った。
 
 中学とか、高校とか、
 クーラーも無い暑い教室に長時間いたり、
 食べ物や飲み物を財布と時間に余裕があるときに我慢したりなんて
 いまじゃできないような気がする。

 まるで無いところなら別だけど、
 そんな快適さを知ってしまった後だから。
 それが一層我慢になるのかもしれない。

 おなかをすかせて歩いた通学路。
 美味しいお店のいい臭いを嗅いで飛び込む楽しみを知った今、
 同じ我慢も随分胃袋に突き上げられてとても苦しい思いをする筈だ。
 耐えることができるかどうか・・・

 最初から、快適な生活を経験していたら
 あんな苦労は出来なかった。
 ううん、できてもひどく辛かったと思う。
 
 大人になって、しなくても良い我慢というのが随分あるのだと知った。
 我慢を無くす方法があるのだと知った。
 我慢しなくてはならないことも、物によっては減っていくものと知った。

 もしかしたら、大人より我慢ができる子供は、
 大人より大人かもしれない。
 子供より我慢が出来ない大人は、
 子供より子供かもしれない。
 
 子供が育つ時、
 大人は大人としての理想像で接していようとしている気がする。
 だから、それを見て育つ子供は、
 ある意味ではそんな理想の大人像の塊なのじゃないかと思う。 

 もう、私達は大人。
 
 10年前ならいざ知らず、
 私達は快適でスムーズなネット環境を経験として知ってしまってる。
 知ってから、スムーズでないブログを知るとちょっとヘコタレタクナル。
 
 ファーストフードに対して、スローフードという言葉が出来た。
 このところ、これも一種のスローライフと漫然とそんな境地になってきている。

 諦めの境地に行くには、まだまだ若い筈なんだけど。。。