香り立つもの

 
 父の夕飯後、一緒にのんびりとお茶をすすっていたら
 甘い匂いがした。
 母が、昨日ゴルフ友達に誕生祝で頂いた梨を剥いてくれたのだ。

 もう梨が出てきているのだなと、
 ちょっとざらついた白肌を眺める。
 ラ・フランスを始めとするむっちりとした西洋梨も好きだけれど、
 日本産の水分がたっぶりと詰まった梨に私は軍配を上げる。
 フォークを刺すとチュッというくらい水気の多い梨は、
 口の中でシャリシャリと小気味のいい音を立てる。
 噛む度に梨の中の爽やかな蜜が溢れてくるようでとても楽しい。

 甘露という言葉がある。
 本来は天から降る甘い露。
 転じて美味しいお茶などにも使われる。
 私はこの甘露という言葉がとても好きで、
 甘露とはこれのことではないかというものが幾つかある。

 1つは、やはり美味しいお茶。

 茶葉にこだわり、お水にこだわり、温度にこだわり、急須と湯飲みにこだわると・・・
 鮮やかな翡翠の液体が黄金色がかって感じる位に素晴らしくなる。
 注ぐ最後の一滴がぽたりと波紋を作るまで、じいっとじいっと見ずにいられなくなる。
 お腹一杯香りを楽しまずにはいられなくなる。
 美味く淹れられた時のお茶の香りは、妙に胃袋を刺激するのはなぜだろう。

 口に含んだ瞬間はそんなに熱く感じないのに、
 体を通って行くときはとろりととても温かい。
 そんなお茶が好きだ。
 美味しいお茶は妙に涙腺を刺激する。

 2つは、水。

 東京を離れたところで飲んだとき。
 喉が渇いたときに飲む水はまさにと思う。
 湧き水の水、湧き水だという駅の水、桧原村の川の水・・。
 初めて飲んだ時は驚いた。
 水があんなに甘くって、存在感があるなんて。
 甘いものなんか食べなくたってあの水を飲んでいれば十分じゃないかと思うくらい。
 水の香りも、東京のとはまるで違う。
 東京の水は・・・水道局の人も頑張ってくださっているのだろうけれど、
 甘露と言うには程遠い。

 そして3つ目、4つ目に来るのが梨と桃。
 
 桃は夏の甘露。梨は秋の甘露。

 口に入れた時にふわっと広がる甘さ、馥々とした香り、
 蜜のようなのにすっきりとした嫌味の無い爽やかさ!
 水気がたっぶりで、喉の渇きを納めてくれるだけではなくて、
 口から喉を通って行く間も甘い幸せがずうっと存在感をもって続いていく。
 それまで嫌なことや何かがあったとしても、お腹に到達するまでに消えてしまう。
 美味しいものを食べている時に嫌なことなんて考えていられない。
 
 美味しい桃や梨を食べると、甘露ってこれのことじゃないかといつも思ってしまう。

 物が物だけにその時期にしか食べられないし、たまにだからこそ、食べながら妙に愛おしくって
 ありがたいなぁと手を合わせたくなってしまう。
 
 甘露とするのには、味だけでは駄目。
 存在感だけでもダメ。
 蜜のように甘く、雫の様に清しく爽やかで、華やかに香り高く、
 口にした途端に洗われるような心地にならなくってはいけない。
 
 そんなことを、梨を食べながら考えていた。
 
 甘露の条件には香りがとても重要だと1人頷いていたら、
 最近の本に感じることを思い出した。

 本を読んでいて思うのだけど、
 最近の作品にはあまり臭いが感じられないような気がする。
 人には五感というものがあって、
 本にはそれを文章で擬似体感させてくれる楽しみがある。
 ところが、どこかの場所の話をするのに「〜の臭いがした。」という表現はあるのに
 それがどんな風でどういう臭いなのかがあまりわからなかったりする。

 下手をすると臭いに関しての表現が一度も出てこないものさえ沢山ある。
 どちらかと言えば清潔好きな日本で育っているせいなのか、
 最近の作品は映像や音の表現が綺麗なのに、どこか妙に垢抜けすぎてシラリとして感じる。
 脱臭剤や制汗スプレーなどがはびこる現代社会に生まれた人は、
 あまり臭いを感じようとしないせいなのかしらと思えてしまう。

 だからなのかな、どうも気に入るという本は古いものが多くなる。

 匂いといえば、私の大好きなロアルド・ダールという方の「チョコレート工場の秘密」という本が、
 「チャーリーとチョコレート工場」と名前を変えて映画化される。
 ガムを噛むバイオレットは?太りすぎのオーガスタ・ブルースは?
 ジョニー・デップのウィリー・ワンカは?と、原作ファンの私は公開が待ち遠しい。

 そうそう、実はこの映画で匂いに関するとても実験的なことが行われる。
 ・・・と、3日の朝日の朝刊に書いてあった。 
 なんでも映画の場面に合わせて匂いを館内に送り込むらしい。
 人は記憶と匂いを密接に結びつけていたりする。
 この方法は映画をとても魅力的にバックアップしてくれるはずだ。

 その機械は、幾つかの映画館でしか使用されないから
 どこだか調べてからいかなくてはと私はもうドキドキしている。

 公開は衆院選前日なので終わってから行くか、始まる前に行くべきか・・・。

 だからこそと言えばいいのか
 1つだけそれを設置する所にいくか、していないところへ行くかと悩む不安材料がある。

 題名からもわかるとおりこの映画、チョコレート工場の中でのことが沢山でてくる。
 香りも多分チョコレートだ。

 素敵なチョコレートの香りがしたらそれはもう素晴らしいのだけど・・・
 10円で買えるチョコから、云千円で買うチョコまでチョコもピンきり。
 出てくる香りが程々の・・・脂っこいようなチョコの香りだったら、
 逆に映画が色褪せてしまうかもしれない。

 なんて観にいく前から頭の中で右往左往を繰り返し私の夜は更けていく。