涙の意味

 電車の中で赤ん坊が泣いていた。
 ふんわりしたひよこ色の服を着て、白いよだれかけをかけられた赤さん。
 あたたかいお母さんの腕に抱かれているのに、これ以上ないくらいぎゅっとお母さんを捕まえて。
 妙に寂しそうな声音で泣いていた。

 お母さんの服をしわしわにして、一生懸命頭をお母さんの中にうずめて。
 「ふえ〜、ふあ、ふあ〜」
 と、小さな荒い息の間から、切ない、か細い響きを車両の中に広げていた。
 弱々しく、何か訴えてくるような小さな叫びにこちらまでやけに切なく哀しくなった。

 その赤ちゃんは腕の中にいるのに
 お母さんに必死で寄り添っていて
 何故か強い孤独を感じた。
 
 もしかしたら赤ん坊はお母さんのお腹にいた時のことを覚えているのかもしれない。

 羊水の中にいる時のお母さんの呼吸や血液の流れる音は10ヶ月間いつも彼(?)を取り巻き、
 ぬくもりを届けた筈。
 栄養や水もお母さんのへその緒から受け取るので、
 彼自身の脈も、母の脈も重なり合って聞こえていたかもしれない。
 
 それが、外に出たら彼の心臓は母の音とは違うリズムを刻みだした。
 守ってくれる温かい羊水もない。
 替わりに両親の暖かい腕。
 でも・・・
 その腕があたたかければあたたかいほど、
 無条件にあたたかい羊水との違いを感じるんじゃないかな?

 腕は羊水じゃない。
 いつも彼を包んでいることは出来ない。
 抱かれいても、羊水の中で感じたほどの一体感には浸れないんじゃないかな。
 それで
 泣きながら、赤ん坊は母の胸に頭をこすり付けて潜り込もうとするのかな。
 
 でも・・・
 それはママの鼓動を聞いて安心するけど、
 体全体で聞いていた時代との違いを実感してしまうのではないかな。
 違いを感じれば感じるほど、
 もう自分は母と一緒じゃないのだとわかってしまって
 あんなに切ない響きで泣くのかもしれない。

 母にしがみつけばしがみつくほど、
 記憶のあたたかさとの違いがはっきりしてしまうんじゃないかな。

 赤ん坊の淋しそうな泣き声のボリュームが上がり、
 母子は駅を降りた。
 遠ざかっていくホームに、次の電車を待ちながら子供をあやす姿が見えた。
 小さな手で母を掴む子は、一体どんな人になっていくのだろうとぼんやり思った。
 

 私は「人が泣く」というのはとても自然なことだと思う。
 何故って、人は泣いて生まれる。
 人生で一番最初に体に掛かったのストレスを泣いて発散させるのだから
 一番自然なストレス発散法なのだと思う。
 
 生まれる時、赤ん坊は柔らかい体を活かして無理やり産道を通ってくる。
 生まれた当初は産道に圧迫されてくしゃくしゃなお顔になったりすることもある。
 羊水の中で気ままに泳いできた胎児にとってはひどい負担。

 しかも、肺呼吸までしなくちゃならない。
 初めての体の機能を使うのはとても苦しいだろうな。

 辛い時、苦しい時に流す涙は
 「苦い涙」という言葉通りに、塩辛く苦い。
 涙の中にストレス性物質が多く
 ナトリウムとミネラルが多く含まれるからだそうだ。
 
 だから生まれたばかりの赤ちゃんの涙もきっと苦い。

 涙はストレスの排泄機能だと思う。
 物を食べれば出さなければいけないのと同様に、
 生きていれば溜まってくるストレスは出さなくてはいけないと思う。
 涙を出さなければ、当然嫌なものがどんどん体に溜まってしまう。
 
 日常的な軽いストレス(生きていれば食べたり寝たりの最低限の生活にも軽いストレスはある)は、
 瞳を潤すために四六時中出ている涙くらいで間に合うのかもしれない。
 でも、社会の中で生きて、考えて、遊んで、仕事して、誰かと話して・・・
 そんなことをしていたら、
 きちんと泣かなくちゃ追いつかないくらいのものが
 どんどん堆積されていくんだと思う。

 涙だけじゃない、そういうストレスの排泄機能は汗にもある。
 ストレスが溜まったらスポーツというのにはこんな根拠もあるみたい。
 
 溜まっていないと思っても、
 ストレスは勝手にどんどん溜まっていくもの。
 近頃ちゃんと泣いていますか?
 泣き方を忘れてしまってはいませんか?
 みんな、自分のために泣く習慣を上げてほしい。
 涙はただの液体じゃない。