日本は、砂金が出たから桜好き?
一昨夜のこと。
どうしても、ここの桜が見たくって、
そのまま、屋根の下に戻ったって、良かった筈、なのだけれど、、、。
ぐしょ濡れになっても、
どうしてもって思わす桜は、やっぱり特別なんだと思う。
ここの桜は、下からの照り返しで漆の夜に沈金をしたように見える。
あえてライトアップをしていないから、屋内の暖色光が薄い桜を透すと、艶めかしく少しくすんだ金になる。
昔、提灯で照らしていた頃は、みんなそうして見えたんだろうか。
ピンク色をした桜が、なんで金に見えるのかと今更のように考えていたら、
以前、
化粧品の会社の方に「金を、同じナノレベルに揃えると、着色も無しに化粧品が桜色になる」と聞いた事を思い出す。
銅を含んだ合金のピンクゴールドも、桜色がかった色をしている。
桜の艶と若干含有量の低い黄金はとても近いものがあるような気がする。そんな事が気になってならない。
徐福が語った黄金の国は、日本だという説がある。
古代日本の金はどんな色をしていたのだろう。
昔学んだ日本史で、銅の時代から鉄の時代へ移ったことは知っている。
でも、金の加工は、いつ始まったのでしょう。
日本で金が発見されたのは8世紀初頭の奈良時代。
当時、日本の金は輸入物。
東大寺の大仏を鍍金するには金が足らず、朝廷は金を再輸入する為の遣唐使を検討していたのだそうです。
そんな矢先に、
百済から亡命してきた王族が、749年に大量の砂金を発見。
無事に大仏が完成し、仏のご加護に感謝した。。と言う所までが、教科書のお話。
(ちなみに、東大寺の仏像はアマルガム方式という水銀を使ったメッキ法を使用したため、水銀中毒者続出)
また、以後の遣唐使達は、支払いを全て自然金の砂金で払ったため、日本には黄金の国のイメージがついたのだとか。
なお、空海は20年分の滞在費として渡された砂金を、経典や本などの購入費で約2年で使い果したのだとか。
お金の出し方、半端ではありません。
淡い桜色が表面に写る砂金は、
遣唐使達に沢山の知識を与え、与えた知識は土木・薬学、様々な
ジャンルで日本の国土を潤おした。
突然に自国で発見された僥倖のような砂金。
その当時の人にとって、普通の贅沢に使ってはいけないような、
仏様の下さりもののような特別なものだったんじゃないかと思う。
遣唐使の派遣が、それまでほぼ15~20年間隔(戦の話し合いのため2ー3年間隔もあり)なのに、749年以降は唐に到着できなかった船も合わせ何年間かが1~5年間隔で派遣されている。
1回の派遣での船の滞在は約2年で、1隻に約150人が乗り(内水夫約60人)、留学生の滞在は約20年。
当時の日本の知識人を、それまでの数倍の勢いで派遣する事が
できたのは金が手元にできたからではないかと思えてならない。
つまり、何をこじつけたいかというと、
その時留学生たちに渡す事ができた縁起のいい金がまとう
淡紅色ををまとうからこそ、桜は美しさ以上に特別で、
日本人が思い入れを持つ花が梅から桜に変わったんじゃないか、というもの。
ヒルズでそんな事をもやもやと思いついてしまったのだけど、、、
当時の金の色など「コレ」と裏打ちできそうなものは
見つけられなかったもので、
これは単なる連想遊びでしかないのだけれど。。。
金が発見された749年の約100年後あたり。
朝廷では、梅見の場が枯れてしまったからと、
なぜか桜に植え替えている。
それはそんな特別な思いを桜に寄せるようになったからではないのかと。そんな風に夜を過ごしてる。
桜がきれいだから、
ついぐだぐだとおかしな事を考える。
これはもう、絶対桜が綺麗すぎるせい。
ちなみに、ネット上で治金や精錬に関わる企業がまとめたサイトに
よれば、15世紀まで日本には灰吹法と呼ばれる金鉱石から銅を分離させる方法が知られていなかったとのこと。
だから、メッキされてないものは、赤みがかった金が多かったんじゃないかしら?600年近く、桜色した金が尊ばれていたのかもって思うと楽しい。
銅と金の合金は、黒や赤みがかった色になるものが多いです。
(なお、『エピソードで綴る日本黄金史』という本では、
灰吹法と同じ原理で骨灰を使って作られた金が、奈良時代に確認できるが、日本で作られていたか確認できず、その手法が広まったのは14世紀の室町時代と書かれているので、分離が出来るようになった時期に関しては1世紀ほど曖昧)