待て待てとまれ
「まて!」
「まて!」
おじさんが右手の指をぐっと広げて叫ぶ。
ところが、「いいか、待つんだぞ」とカメラを構えると、右手首から垂れた青い引き綱がくっと引かれて綱先のゴールデンレトリバーが側へ行く。
と、おじさんが「こら!待て」と叫ぶ。
正月ののんびりとした陽光が刺す駅前の小さな広場は、小さなビルが隣接していて、「まて!」の残響がちぎれた細波のように返ってくる。
「待て」・・って・・て・・
「いや、だから、待つんだ!」んだ!・・ん・・・だ・・だ・・・
おじさんの持つ大きなレンズが美味しいものなんじゃないかな?と、レトリバーが鼻を近づける。
汚されないようにとおじさんがカメラを頭上に上げて反り返る。
反り返った腕がまた綱を引くからレトリバーは立ち上がっておじさんにじゃれて行く。
「もっと後ろだ!」「止まれ!」「笑え!」
おじさんの命令口調もレトリバーには「おいで」と聞こえるらしい。
ろだ・・だ・・だ・・・。まれ・・れ・・れ・・。らえ・・ぇ・・ぇ・・・
小さな残響が降る中、尻尾を振っておじさんのカメラに擦り寄って行く。
「こら!」こら!・・ら・・何度も何度も挑戦するおじさん達の横を、駅から降りてきた人たちが
一目で様子を見て取りくすりと微笑み抜けていく。
良いシャッターチャンスを得るのは難しそうだ。
小さな広場にはもう1人おじさんがいる。
ベージュのベストを着たこちらのおじさんは、「待て」の残響の下で所在なげにポケットに手を突っ込んで立っていた。
何をしているのかと近寄ると、むっちりとした肉付きの柴犬が地べたに沈み込むような形で両手両脚を投げ出して眠っている。
黒い引き綱はおじさんの手をとうに離れて柴犬の脇にウネウネとした線を描いている。
おじさんは私の視線を感じると「いやぁ、おじいちゃんなもので昼寝が好きなんですよね」と笑う。
後ろでは止まることを知らないレトリバーが跳ね、眼前には散歩の途中で動かなくなってしまった柴犬。
正月の空はどこまでもやわらかな青色で、あくびの出るほどのいい陽気で、広場を後にしてもしばらくは、カメラおじさんの声が途切れ途切れに耳に届いた。